2014年12月16日火曜日

信州衆の苦労と悲しみ


 「上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説」から

 [出典] 
 http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html


最後の越後方の砦、飯山城と亀蔵城の攻略が武田方の東条在陣衆を主力として仕掛けられ、失敗したの が、上野原合戦であると筆者は認識しました。のち、永禄三年九月、武田信玄は亀蔵城(文献で最初の確 認)の十日以内の自落退散と、越後勢への勝利を神に祈っていますが、かかる状況は東条が海津城拠点に 移り、善光寺平を手中にしたうえで、先に失敗した飯山地方の制圧を信玄が再びもくろんでいたことを示 しています。
 弘治三年の戦は、長尾景虎にしても、高梨氏を初めとした信州衆の救援のように史料に登場しています が、内心は、武田氏の信州完全制圧の脅威があり、春日山城の防衛こそが、善光寺平包含圏の出陣の理由 にほかならないと思います。
 弘治年間の飯山城は土豪泉弥七郎(重歳)の館城が丘頂にあったのみと推定され、広大な自然丘は、景 虎が善光寺平出陣の基地として利用したが、まだまだ、城としては不完全でありました。そこが城として 完成するのは、後年の永禄七年であります。それ以前の飯山城の防御性は低く、飯山城以南の旧城を利用 した支城網の意義が深まり、田草城・小田草城周辺の一帯が上倉・奈良澤・泉氏(泉氏は泉・尾崎・今清 水氏らに分派している)ら地侍衆の集結する亀蔵城の中心拠点であったと推定したわけです。のち、安土 桃山時代に、上倉氏や尾崎氏の配下に舟山氏・上野氏・上原氏などがいることは、前にも記しました。 
 いずれにしても、善光寺平包含圏は永禄年間初頭には、東条付近に海津城が、飯山に、飯山城と亀蔵城 (上蔵城)諸城が存在し、甲越双方の信濃経営と軍事基地的中核となっていたと想像されます。      
 以降、甲越戦争は飯山及び亀蔵城と海津城の争奪をめぐっての戦が主となり、海津城が早く完成したの を受けて、永禄七年に飯山城が本格的普請の第一歩を踏み出すことになります。
 ここで、庶民史との関りについて、若干視点を注ぐと、綿内や東条在陣衆などが問題となります。ここ は小山田備中守など甲州衆も目付け役を兼ねて派遣されていますが、真田氏西条氏など武田氏に従った信 州衆が中心となった武田方大拠点です。もちろん、当時の武士は百姓でもあり、駐屯した下級武士たちは 庶民です。信州衆は武田晴信(信玄)の傘下になっても、いつも前線に立たされるという、苦労と悲しみ と出世の狭間にありました。

長尾景虎(上杉謙信)方の信州衆についても、景虎に失地を回復してもらっても、ひとたび景虎本隊が前線を下げると、武田方先方衆と交戦状態となったと推量されます。弘治三年七月における島津氏の甲越所属の分裂や葛山衆などの武田氏への投降も時代のなせる業であります。  
 弘治三年八月下旬の、上野原の戦いがどこで行われたかは、筆者も断定できません。しかし、見えてきたのは、越後方は長尾政景など有力武将も入るが、その配下の武士と大半は信州地侍衆と考えられ、武田方の、主に先方衆との戦闘こそ、上野原の戦ではなかったかということです。その中には嘗て在所をともにした同族が含まれていたかもしれません。庶民の悲しい歴史が、上野原の戦に表出したというべきでしょう。
 なお、根本から上野原の戦を否定する説もありますが、現在残っている感状がすべて案文(写)である以上、確かめる術もなく、案文を信用するしかないと思います。将来これらの案文が偽文書であると証明されれば、筆者を含め、これまでの各説は海の藻屑となります。  
 以上大胆に通説を打破し考察を重ねましたが、永禄元年以降の善光寺平の武田氏の進出を見れば、あながち荒唐無稽の妄想とはならないと自負しています。しかし、史料の解釈で、拙論が成り立たないこともあり、皆様のご指摘とご指導をお願いする次第であります。
 

 

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