2014年12月15日月曜日

徐福


秦の徐福
それでは、高皇産霊神はどういった人々の系統に属するのであろうか。『古屋家家譜』による大伴氏の系統をたどるとBC200年頃の人物となるこ と、元の本拠地が高良大社の地であること、日本列島平和統一に対して異常な執念を燃やしている、ことなどを総合して考えると、浮かび上がって来る人物が存 在する。それは、秦の徐福である。ここで、高皇産霊神=秦徐福の系統であるとして、その可能性を追ってみたいと思う。
中国での徐福
徐福は秦の時代の中国でBC278年に誕生したと言われている。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者であった。
中国では1982年に江蘇省連雲港市において「徐阜(じょふ)村」が発見され、そこが以前は「徐福村」と呼ばれており、現地で確かに徐福伝説が伝 承されていることが確認され、徐福出生の地として「徐福祠」が建設された。伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として認定されたのである。
当時中国は秦と呼ばれた時代で始皇帝が中国を支配していた。始皇帝は不老不死の仙薬を求めており、徐福に仙薬の入手を命じたのである。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを決心した。
司馬遷の『史記』に、「東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう) という3つの神山があり、ここには仙人がすんでいます。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。」と徐福が願い出たと記述されている。
始皇帝は、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣し、徐福に託した。徐福は紀元前219年、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航したのである。
日本上陸
徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸 が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあた り、当時は一面の葦原で、それを手でかき分けながら進んだという。
一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に 残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ、井の字型の角丸太と5個の石が発 見され、徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。
しばらく滞在していた徐福一行は、漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため、その臭いにがまんができず、この地を去ることにした。去るとき、何か記念に残 るものはと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では、新北神社のご神木で もあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ、共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明してい る。
一行は北に向かって歩き始めたが、この地は広大な干潟地であり、とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので、ここを「千布」と呼んだ。使った布は、千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
千布に住む源蔵という者が、金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために、徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中、阿辰が身の 回りの世話をしていたが、やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら、「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが、阿辰 は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり、阿辰観音として祀った。
徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。
やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、薬草はどこにある かと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えてい る」と言うと、釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で、金立山の山奥に今でも自生している。
金立山には金立神社がある。祭神は保食神、岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。
徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山 梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず、徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子 300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し、村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが、 BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので、ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており、徐福の行動が詳しく記されている。
「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが、中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。
以上が徐福伝承のあらましである。徐福はこのほか九州から関東までの太平洋岸と日本海岸では丹後と秋田・青森に伝承を残している。この地域で不老不死の薬を探しまわったのであろう。
吉野ヶ里遺跡
徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の何人かが残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。
吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全 くない。素盞嗚尊・饒速日尊の統一事業の前に巨大化していたためと思われる。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが 非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、 蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程 の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉 野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。
吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重に もめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在 している。
弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。ところが、素盞嗚尊・饒速日尊が訪問してきた弥生時代中期末以降急速に、平和状態になったようである。武器は祭器化し、環濠集落も消滅したのである。
高良大社との関係
吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。 高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲 撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺 跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるので ある。
饒速日尊がこの地にやってきたのはAD10年頃で、徐福がいたころから200年ほどたっている。1世代30年ほどとして、200年は7世ほどであ る。当然ながら200年前の記憶は残っていたであろうし、この地に住んでいた人々は徐福の子孫であることを自負していたのではないだろうか。
徐福がこの地に着いて、吉野ヶ里遺跡を形成してから、周りからの襲撃を頻繁に受けており、戦いにはうんざりしていたことであろう。また、徐福は中 国にいる頃、中国の戦国時代で戦いの中で育ってきており、秦に敗れた斉の出身である。戦争の悲惨さは身にしみて感じていたと思われる。しかし、吉野ヶ里遺 跡の状況からみて防御中心であり、周辺の集落を襲撃して国として統一しようとしていたようには見えない。吉野ヶ里遺跡の人々は先進技術を持っている上に武 士を引き連れていたのであるから、周辺の国々を併合して統一国家を作ることは可能だったと思われる。戦いを好まない徐福の性格が、ここの人々に侵略戦争を 仕掛けてはならないことを伝えていたのであろう。
この人々こそ高皇産霊神と呼ばれた人々ではないかと考えている。高皇産霊神としては、頻繁に襲撃を受けてはたまらないがこちらから戦争をしかけて はならない。こういった状況は何とかならないかと思っていたことであろう。そういったところに素盞嗚尊・饒速日尊が平和統一の提案をしたのである。高皇産 霊神としてはこの案に飛びつくのは当然である。迷うことなく、自らの造った国をすべて献上して、饒速日尊の統一事業に協力するというより、主体的に動くこ とになるのである。
高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の国々に伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて一挙に 統一されたのである。AD25年頃、饒速日尊が大和に降臨して東日本全域を統一する計画を持ちかけた時、自分の子をはじめとする、多くの人々を従えさせ た。饒速日尊が率いていったと言われる物部氏の旧蹟地は、上記の高木神社の存在範囲とほぼ完全に一致している。これも高皇産霊神の協力があったことをうか がわせる。また、BC200年頃、徐福一行が立ち寄った地にはその子孫が生活していることであろうから、それらの人々に協力させることも行ったと思われ る。徐福伝説地は東日本太平洋岸に多いが、この地域の統一に饒速日尊は大して苦労した様子もないことから、これら人々の協力があったのかもしれない。
素盞嗚尊・饒速日尊は神皇産霊神に相当し、徐福の子孫は高皇産霊神に相当する。共にムスビの神である。協力し合って、日本列島統一をしたので、こ のように呼ばれることになったのかもしれない。皇居八神殿の第一殿に神皇産霊神、第二殿に高皇産霊神が祭られているのも当然であろう。姿が見えない神であ るというのも系統を指しているためと理解できる。 

[出典]
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den107.htm

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