2014年12月15日月曜日


筑前は古来より大宰府があり、関門海峡を挟んだ九州の要衝でありながら、平野のため守り難いためか、独立した有力な大名が育たず、秋月氏は筑前で唯一長く続いた有力武将のためか、小さな戦にも傍観者では居られず、筑前における戦いにはほとんど関わってきました。
最初は元寇の役で戦い、次には菊池氏と共に、多々良浜で再興をかけて九州に上陸した足利尊氏に敗れ、更に南北朝を巡る内戦では、昨日は足利、今日は宮方と 日和って戦いました。戦国の世になると大友氏の勢力に属していましたが、毛利元就の九州進出に呼応し大友氏に反旗を翻したため、筑前立花城の大友一門の猛 将立花道雪ら2万の大軍に攻められ、居城を捨てて毛利元就の基に逃れました。その後旧臣らの画策により小倉城、古処山城を回復しました。

島津氏と大友氏とが激突した日向耳川の合戦で大友氏が敗れてから、島津氏に寄した秋月氏は最盛期を迎え、11郡36万石24城を持つ戦国大名になりました が、それもつかの間で、秀吉の九州征伐では真っ先に古処山城を攻められ、足利義政が所有し信長が欲しがっていた、大名物茶器の「楢柴の肩衝」を秀吉に献上し降伏したのです。そして日向の高鍋に移封され高鍋藩として幕末まで存続したのです。上杉鷹山はこの高鍋の秋月氏から上杉に養子に来ました。

秋月氏が去った秋月は、関ヶ原の戦いで西軍の背後をかく乱し勲功があった黒田如水の福岡藩の5万石の支藩となり、黒田秋月藩として明治まで存続したのです。


[出典]
http://members3.jcom.home.ne.jp/alp/2013a/2013a.html

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