2014年12月12日金曜日


天正12(1584)年3月、徳川家康と羽柴秀吉は尾張の小牧山で戦っている。家康は秀吉方の景勝を牽制させるため、貞慶に麻績地方へ侵攻させた。貞慶は上杉方の青柳方面の備えが堅いため、3月初め、渋田見・細萱・等々力(とどりき)などの仁科衆に上杉靡下の大日向佐渡守(おびなたさどのかみ)が守る千見の番所から小川方面に出て、水内郡の鬼無里を攻略させた。この戦いで仁科衆は30余りの首を討ち取っている。
 貞慶は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 貞慶は景勝の来襲に備え、青柳頼長に麻績の東方の安坂城(東筑摩郡筑北村坂井下安坂)を守らせ、冠着山に監視哨を置いた。4月16日の日岐城番の犬甘半左衛門久知宛の書状が興味深く、上杉軍が侵入してくれば青柳頼長が法螺貝を吹き鳴らすので、久知は麻績の西方にある大岡の笹久まで出陣すると同時に、即松本へ飛脚を寄越せ、夜中であっても直ちに麻績へ出陣すると伝えている。麻績から景勝の海津城出勢の飛脚は早くも来た。貞慶は4月18日、仁科衆に犬甘氏に従い、即刻睡峠を越え笹久に出兵し牧之島在城の芋川親正らに備えるよう命じた。
 貞慶も犬甘半左衛門に「明日各々召し連れ出馬候」と伝えた当日20日の払暁、上杉の検使役、水内郡の島津左京亮義忠が率いる川中島勢が、先の麻績城主下枝氏友の一族と共に麻績に攻め込み城を奪っていた。貞慶も直ちに麻績城奪還しようとしたが、小笠原頼貞・小笠原長継・二木重吉(ふたつぎしげよし)ら重臣は、今の麻績勢は筑北・川中島・越後の諸勢力を糾合し、侮れず時機を待つしかないと進言したが、貞慶は出陣と決した。青柳城周辺をめぐって上杉軍の大軍と小笠原軍が戦い、貞慶は大敗した。松本城に落延びる間、殿軍を率いた三溝三左衛門は筑摩郡立峠において戦死した。岩岡治兵衛も討ち死にした。松本城の守将二木重吉は、松本周辺の住民数千人をかり出し、紙旗を翻し援軍と見せかけ貞慶の危機を救い城内に迎い入れた。景勝の書状から抜粋すると「小笠原、麻績の地に至って相動き候のところ、各侍衆を引立て、かの地に馳せ向かいすなわち一戦を遂げ大利を得て」「敵百余人討ち捕えられ、首の注文が到来し、心地好き次第に候」とあり、屋代秀正が大功を上げた。この戦いの検使役は水内郡の島津左京亮義忠で、北信の侍衆で構成される景勝軍が、小笠原貞慶に大勝し討ち取った首の注進状を景勝宛に送っている。景勝の感動は大きく「連(つ)れ連(づ)れ忠信を思い詰められるところ、たしかに露顕し、奇特感じ入り候」と秀正に書き送っている。4月11日、景勝の重臣、狩野景治直江兼続は連署して、戦功のあった「おのおの稼ぎの衆へ、明々日の間に、お使を遣わせるべく候」と島津義忠に申し送っている。
 ところが、松本城を包囲した島津軍は、翌日軍を引き揚げた。25日には景勝も越後へ帰陣した。貞慶に方々から、その注進があり、その日の朝、麻績から八幡に出る猿か馬場峠から八幡峠に物見を出し峠を放火させた。景勝は上杉謙信没後の御館の乱(おたてのらん)に戦功があった新発田重家が、その恩賞を不満として乱を勃発させ、景勝は越後に戻らざるを得なくなった。
 当時、秀吉と対峙して小牧山に本陣を置く家康の本拠三河に侵入しようとして、秀吉は羽柴秀次を大将として出兵させたが、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において挟撃され、森長可池田恒興をはじめ2,500人を失い、家康方に完敗していた。こうした情勢下、景勝は秀吉への義理立てで筑摩へ出兵したが、本国の情勢は長期の滞陣を許さなかった。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm

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