2014年12月23日火曜日

戸隠山の歴史


 創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社で、起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
  岳信仰の霊場として修験者の集まるところとなり、平安末期にはすでに全国にその名が知られた有数の道場であった。鎌倉時代には顕光寺の寺名でよばれ、比叡山延暦寺の末寺になっていた。そのころから善光寺如来信仰の隆盛に伴って霊験所としての戸隠から、一歩進んで大衆の信仰を組織する方向に進み、戸隠三千坊と称せられる隆盛をみた。
  天文二二年(1553年)から永禄六年(1563年)までの川中島合戦にまきこまれ、この間に信玄あるいは謙信の攻めにあい、戸隠山はまったく荒廃した。文禄三年(1594年)朝鮮より無事帰国した上杉景勝は奉謝のため、戸隠山の再興を図り、伽藍宮殿などを再造し、本地聖観音・不動明王・多聞天などをはじめとして、仁王・仁王堂および院家惣門などを修造あるいは新造し、また衆徒なども帰山し、名実ともに戸隠山は再興された。
  江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
  その後、明治維新になり、神仏分離は発せられ、山内の仏像はじめ仏教に関係あるものを処分して、寺の僧は神官になり、寺院は一切は廃せられ戸隠神社に統一された。


[出典]
http://kazmiwa.sakura.ne.jp/kaz-jinja/130411togakushi/togakusi2013.htm


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