2014年12月16日火曜日



5、善光寺平河東部の武田方拠点形成と戦況の新展開


 次の史料要約2は『信濃史料』にはない新史料です。弘治三年の善光寺平の戦況を語る重要な問題を含んでいるので、次に内容を掲げます。
 
       史料要約2、武田晴信書状 ○大阪城天守
       閣所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五六三号)を改変
 
  各々がよく働かれるので、そちらの備(千曲川右岸の東条と綿内)が、万全であるのは喜ばしい。当口 (千曲川左岸地帯)のことは、春日・山栗田が没落し、寺家・葛山は人質を出してきた。島津氏について は、今日降参の趣を伝えてきている。もとより、同心が通ずられているので、心配はない。
 この上は、つまるところ相極め、東条と綿内、真田方(幸綱)衆と申合って武略を専一にしてほしい。
只今は時節到来とみたので、聊かも、油断してはならない。恐々謹言。
 追って、内々に□島(長野市綱島か)辺に在陣した が、もしも越後衆が出張してきたならば、備えは如何 にと、各々が意見するので、佐野山(千曲市桑原付近) に馬を立てた。両日人馬を休め、明日は行動を起こし
たい。
    (弘治三年)   (武田)
     七月六日    晴信(花押)
       (虎満)    
     小山田備中守殿

 史料要約2を天文二十四年のものとし、小山田氏と真田幸綱(のち幸隆)が景虎方の東条(雨飾城)と 綿内城(春山城か)を攻略することを、晴信に命ぜられたものとする説もありますが、そうではなく、既 に、東条と綿内城は武田氏の手中にあり、真田氏と小山田氏が城将となっていることを示しているものといえます。東条と綿内のどちらの城将かは分からないが、この書状は、一方を守る小山田備中守に宛てた ものと推定します。
 この書状の年号は、『遺文』を支持し弘治三年とし、東条と綿内城の真田氏と小山田氏が武略を専一に して行動するように、晴信が指示したものと推定したいのです。景虎が飯山に帰っている六月中旬~七月 初旬、既に東条と綿内城が武田方により取り返されていたのでしょう。
 この書状は、善光寺平河東守備衆が守備万全の報告をしたのち、武田晴信が返答したものであるとすれ
ば、文言の理解が出来ます。
 また、追而書の文言から推察すると、晴信は川中島の綱島あたりまで進軍したが、越後方の脅威がある ので、一歩後退し、七月六日善光寺平南部の佐野山城(千曲市桑原付近)に居て、信州全体の指揮を執っ ていました。つまり直接的には千曲川左岸(西岸)の越後方陣地の攻略を晴信本隊がつかさどっていたの であります。
 島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を 押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、 分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
 史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略 あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分かります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の 越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六 日の両日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
 また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方 で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧 してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小 谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
 景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があり ます。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際のものとされていましたが、『上越市史別編1』で は弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八 月四日現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ね ていないので、弘治三年説に従いたいと思います。

 [出典]
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html

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