2014年12月23日火曜日


1 むかしむかし日光で戦があったという話

百人一首に猿丸という妙な名の歌人の次のような歌があります。
 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
しみじみとしたいい歌です。きっと作者は紅葉狩りにでも出かけたのでしょうか。時は晩秋。山の紅葉もほぼ散り終えて、冬の訪れを待つばかり、遠くで鹿がもの悲しい声で「きゃん」と鳴く。はぐれた我が子を思ってでしょうか。それとも帰って来ない伴侶を呼んでいるのか。行く秋の奥山の寂しさともの悲しさが渾然一体となった美しい世界が歌を読むものの脳裏いっぱいに拡がってきます。
ところでこの猿丸、あの宇佐八幡のご神託があったと詐称して皇位の継承まで企てて失脚した快僧弓削の道鏡(ー772)の変名という説もありますね。そんな謎が謎を呼んで、全国にこの猿丸の伝説というものが残されています。
    日光の猿丸談は、こんな感じです。
むかし、都に有宇中将という人がおりましたが、この人物とかく弓矢の名人で狩に懲りすぎておりました。その驕慢からか、帝の意に逆らうことも多く、ついには奥州に左遷されたのでした。そこで地元の朝日長者の娘をめとり、ひとりの子をましました。名を馬王と言いました。馬王は成長し、側女に子を孕ませました。この子が問題の猿丸です。正式名は小野猿麻呂と言いました。この猿という奇妙な名の由来は、どうやらその容貌にあるようです。まるで猿のようで大変見苦しいものでした。猿丸の本拠は、現在の福島県の熱借山(あつかしやま=福島の厚樫山?阿津賀志山とも表記?)であったようですが、小野という地名もあるので、秋田の雄勝郡の小野村(現在の雄勝町大字小野)だった可能性もあります。
ある日、日光(二荒=下野)の神と赤城の神(上野)の間で争いごとが起こりました。山中の境にある湖をめぐる争いです。日光の神も赤城の神も、「これは元来私たちのものである」と主張して譲りません。そこで鹿島の神(常陸)がやってきて、日光の神に言いました。「猿丸どのは、そなたの孫にあたる人物で、弓の名手と聞く。助勢をしてもらう方がよいのでは?」早速、日光の神は、白い鹿の姿に身を変え、奥州の山中で狩をしていた猿丸の前に現れ、ワザと追われて日光の山中まで誘い込みました。そこで今度は女神の姿になってこのように言ったのでした。「これ、猿丸よ。私はこの日光山の神である。お前は、私の孫にあたる。お前をこの地に誘ったのは、訳がある。それは私のアダを討たせようと思ってのことだ。もうじき赤城の神が、ムカデの形をして、攻めて来るだろう。そうしたら私は大蛇の姿で応戦する。お前達が、もし応援してくれて、戦に勝った時には、この山をお前に与えて好きなように狩ができるようにしよう。」
猿丸は、自分のルーツを知らされたためか、大蛇に加担し、ムカデに散々に矢を射掛けて、ムカデは、ついに目に矢を受けて逃げ出したのでした。奥日光の戦場ヶ原は、この激戦があった辺りでしょうか。また赤沼は、この時の地が流れて赤沼と呼ばれるようになったと言われています。
そして今、日光にある三所神は、第一に男体本宮(豊城入彦)に瀬尾女体中宮(朝日姫)、第三に新宮太郎(猿丸の父の馬王)となります。そして宇都宮神社は、猿丸自身を祀った神社と言われています。
日光には、周知のようにニホンザルが大変多いわけですが、ひとつの戦が猿の加勢によって決まったということで、この日光(下野)の国の猿という動物のトーテム化のようにも感じます。つまりムカデとヘビの争いをサルが応援することで、勝利がヘビ側にもたらされたことになる。またそこに仲裁というよりは、露骨にヘビを応援した鹿島の神(出雲の国譲りでも活躍をするアマノコヤネを祖とする中臣氏=藤原氏の神)という存在が気になります。
ではこの日光山と赤城山の争いとは、何だったのでしょう。下野と(しもつけ)上野(かみつけ)の遠い祖先は、共に崇神天皇の第一皇子だった豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と言われています。(崇神紀)おそらく大和朝廷の力を背景にして、北関東に古墳文化を築いた子孫たちが、時代を経て勢力を分けて相争っていたのでしょう。その争いを終わらせるために、奥州からやってきたサルの集団が決定的な役割を演じたのでしょう。もっと分かり易く言えば、奥州の狩猟集団が、この日光・赤城の同族同士の勢力争いに決定的な役割を果たしたということになりましょうか。その勝利において、奥州の武装集団を呼び寄せる口添えをしたのが、鹿島の神(藤原氏?)だったのも実に興味深い。

[出典]
http://www.st.rim.or.jp/~success/mukade_ye.html

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