2014年12月12日金曜日


森長可は4月5日、川中島の修験道の中心皆神山(みなかみやま)和合院や篠ノ井塩崎の康楽寺など領内の諸寺院に国掟を掲げ領内取り締まりに当たっている。長可は海津城に在城し、飯山城には稲葉彦六貞通を遣わし在城させた。すると、その飯山を取り囲む一揆が盛んとなった。これに対し、信長はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また信忠の手からも団平八が派遣された。織田本軍の来援を知った敵方は山中へ引き、現長野市豊野町大倉にあった古城・大倉城を修復し、芋川親正を一揆の大将として立てこもった。4月7日、一揆勢のうち8千ほどが長沼口まで進出してきた。一揆の将島津忠直は長沼城(長野市穂保;ほやす)に篭城した。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に出合うと一気に攻撃を仕掛けた。そして7、8里にわたって追撃を行い、敵勢千2百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てた。この一戦により森勢の挙げた首は2千4百5十余にものぼったという。こうした惨状を呈し、飯山城を囲んでいた一揆勢も引き上げていった。この不手際で稲葉貞通は飯山城守備の任を解かれ信長の本陣の置かれている諏訪へと召還された。飯山城代には長可家臣の林為忠が置かれた。香坂昌元、小幡虎昌らは、人質を長可へ送っている。長可は長沼城に各務兵庫を城代として遣わし、千曲川以北の土豪の旧領を安堵した。
 長可は、信長より5月27日に越後への侵攻を命じられた。越後国内に侵略し、現新潟県妙高市の関山から二本松まで進軍した。その上杉影虎方と対峙中の6月2日、明智光秀謀反による本能寺の変で信長が自刃した。6日には長可の弟蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が京都の本能寺で殉じるとの悲報が届いた。直ちに、長可は海津城に帰陣し上京の準備をする。そこに香坂昌元、小幡虎昌らが来て、人質の返還を迫った。「もし聞きいれないときは、槍先にかけても請取るから、路次、難儀となろう」と脅かすが、長可は「槍先勝負とは笑止、いらざる戯言止め早く帰り、上洛の共の支度をすべし」と睨みつけた。香坂、小幡両人は、その威勢に言葉を返すこともできず立ち去った。
 11日、海津城を放棄し、途中、信濃・美濃の国衆が行く手を阻む中、本拠地の美濃の金山城に帰ろうとした。その報が伝播すると旧武田家臣団による一揆などが一斉に蜂起し逃亡しようとする長可を、香坂昌元らが信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いて、千曲川の対岸で阻止した。それで長可は香坂昌元の息子である森庄助(森姓は長可が烏帽子親である為)をはじめとする人質を使って交渉の席を設けた。長可の側近として主に対外交渉などを担当している家臣大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わされた。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であった。ひとまず深志(現松本市)で人質の開放するから「森軍に手出しをしない」という条件で合意した。しかし一揆衆は、人質を押さえられていた上での合意であれば、当然真意とは違い猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ;千曲市と麻績村の堺、善光寺街道・現在は国道403号となっており、聖湖の北側)で長可と戦に及び、撃退された。
 そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、深志に着くと約束を反故にし、長可自ら香坂昌元の息子森庄助を初め人質の多くを殺し、そのまま北信濃から撤退していった。残りの人質は木曽の木曽義昌に預け西上した。

3)上杉景勝、川中島に侵攻
 長可が北信4郡を空け西上すると、上杉景勝は直ちに、川中島へ侵略した。6月13日、稲荷山北部の清水三河守を臣従させた。次いで水内郡の栗田民部介や更級郡西山部の香坂一族など、北信4郡の武田氏旧臣や国衆に所領を安堵し臣属させた。海津城の城将の香坂昌元、小幡虎昌らもこれに従い、6月14日朱印状が与えられている。同月29日、景勝は遠山丹波守を上州沼田に在城させ、その功として更級郡八幡の松田氏の遺領を宛行い、埴科北部の西条治部少輔に本領を安堵する朱印状を与えている。7月3日、景勝は北信4郡の仕置のため、長沼城に入り、宛行状を与えた諸士と対面し、各所務に励み城普請をするよう命じた。
 天正10(1582)年3月、武田氏滅亡と信長による甲信の平定がなされたが、甲斐はもちろん信濃の一部でさえ、小笠原貞慶に分け与えられることはなかった。旧領の安曇・筑摩両郡は、信長に降った功により木曽義昌に加増され宛行れた。この年6月2日、信長は本能寺で自裁すると、たちまちのうちに甲斐・信濃の信長勢力は、旧勢力の復活により駆逐される。この機会に、越後に居た貞慶の叔父小笠原貞種が、上杉景勝の援助を得て木曽氏より深志城を奪い返した。しかし、景勝は海津城に居て、筑摩地域が容易でない状況を目の当たりにして、これまで上杉に臣服していなかった国衆にも、かつての経緯を問わず、その所領を安堵した。景勝は北信4郡の制圧こそが、当時の情勢下であれば、最悪確保されなければならない要地であった。
 徳川家康の戦略眼と軍事力、家臣団の強靭さは、景勝のそれを遥かに超えていた。小笠原貞慶は本能寺の変の時、家康のもとにいた。家康の要請もあって念願の信濃に入り、馳せつけた小笠原旧臣たちを率いて深志城を攻撃、7月17日、叔父小笠原貞種を追い落とし、ついに深志入城を果した。
 上杉景勝も小笠原貞慶の勢力拡大を阻むため、懸命に、小県郡の諸侍に宛行状を発している。7月24日付けで、小田切四郎太郎に「任望むの旨ゆえ、塩田郷の内下郷・中郷・本郷3か村の内、以上千5百貫文務める所、出し置き候、よって件の如し」と本領を確認している。
 西条治部少輔には7月25日付けで「近年抱え来る知行の儀は申すに及ばず、その上の忠信の間、新地として洗馬(せば;塩尻市大字宗賀字洗馬)、曲尾之を出し置き候、しかる間、いか様の者横合候とも、相違あるかざるべきなり、よって件の如し」と朱印状を与えている。
 屋代左衛門尉(秀正)にも7月25日付けで「近年抱え来る知行は申すに及ばず、忠信誠に比類なく、庄内根津分、並びに八幡の内遠山丹波分、浦野一跡之を出し置く者なり、よって件の如し」宛行状を与えている。景勝が海津城に入り、北条氏直と対峙した時、屋代秀正、海津城の香坂昌元、上田城の真田昌幸ら主だった国衆は、既に北条氏に内属していた。景勝とても、その実情は承知しながらも、それまでの経緯を問わず、諸士の本領を安堵し、その上の新知を宛行った。その結果、川中島4郡の鎮定が進められた。
 7月には、上杉景勝は高井・水内、更級・埴科の北信4郡を制圧し、安曇・筑摩・小県3郡の一部をも領有するに至った。景勝は村上義清の子景国を海津城代に任じ、元来、村上氏家臣筆頭の家柄であった屋代秀正を副将として海津城二の丸に置き補佐させた。同時に秀正は、屋代郷屋代城の守備も命じられている。そのため景勝は、秀正の守城荒砥城(千曲市上山田温泉)に清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内ら7氏に、10日交替の在番を命じ、筑北地方の警備を厳重にさせた。
 秀正の養父屋代正国は、村上義清の重臣であった。武田信玄の信濃侵攻に対し奮戦し、天文17(1548)年の上田原の戦いで嫡男基綱が戦死している。天文22(1553)年4月5日、塩崎六郎次郎と共に村上義清から離反して武田氏に降伏し、村上氏没落の切欠となった。天正3(1575)年の長篠の戦いで、武田勝頼方として次男正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を継がせた。秀正はもとより景勝、村上景国いずれも、その間の経緯は知っているはずだ。川中島4郡の鎮定は、極めて脆い一時の均衡であった。
 景勝は天正10年8月12日日付で、秀正へ「兼ねて申し定める如く、源五(村上景国)の事別して入魂任せ置き候、万端仕置き何遍も分別次第、源五と談合これあり、相計らえもっともに候、恐々謹言」と書状を送っている。
 景勝は、信濃の仕置がなると、当地の横目として板屋佐渡守光胤を置き、食邑として更級郡布施の内河野因幡(尚家)分、高井郡高梨領大熊郷料所分、更級郡桑原郷料所分、更級郡今井郷小山田分を宛行っている。

4)北条氏直、信濃侵攻と諏訪頼忠
 この当時、滝川一益(かずます)と戦い、その勢力を駆逐した北条氏直は、それに乗じ碓氷峠を越え佐久郡の依田信蕃(よだのぶしげ)を追い、小県郡海野に達した。真田昌幸もその勢いに抗しえず臣従した。
 天正10年(1582)、氏直は、諏訪の重臣千野昌房に使者を送った。家康も、大久保忠世を派遣して臣従を勧めるが、この当時、高遠の保科氏、木曽の木曽氏など南信濃の小領主の多くは、既に北条方になっていた。諏訪頼忠も氏直から北条氏につくよう要請されていた。この後直ぐ6月28日、徳川家康は大久保忠世を信州諏訪に出兵させた。諏訪や伊那の国人衆を傘下に入れるためであった。酒井忠次の軍は下伊那の小笠原信嶺の軍と合わせて、7月14日高島城(茶臼山城)を囲むが、頼忠はよく耐えこれを防いだ。この危急を知って北条氏直は佐久に出陣した。酒井忠次は北条の動きを見て、一旦は高島城の囲みを解き、甲州の台ケ原(山梨県北杜市白州町の旧台ケ原村)に退いた。7月19日から21日に掛けて、大久保忠世から盛んに帰順を促す書状が届けられた。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍、合わせて3千の軍に決戦を命じた。高島城を攻めるが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれに堪えた。これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していたが、諏訪氏救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、氏直はその兵、4万3千を率い、役行者(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を越えて、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣した。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。8月6日まで滞陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し布陣した。
 家康は甲府から新府に進み、氏直と対峙する。両軍は小競り合いを繰り返しながら、80日近く経って、10月29日にようやく両者の和議が成立した。それは真田昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を奪取し、北条軍の糧道を断ったからである。ついに、氏直は形勢の不利を悟り、上州沼田をとる一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えること約定して和睦した。そして、家康の次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有する。
 既に諏訪頼忠に対して、家康は、対陣中の9月の時点で、大久保忠世を高島城に派遣して、頼忠に帰順を勧めていた。最早、北条に頼れないと悟り、やがて頼忠・頼水父子は、甲府の家康に拝謁し、次男頼定を人質として差し出し、徳川に帰属を願い出た。家康はこの時「信州の事情がはっきりするまで、帰って待て」と指示、翌天正11(1583)年正月、柴田康忠を高島城に派遣した。3月28日には、諏訪安芸守頼忠殿宛てに、家康の花押のある諏訪郡の安堵状が与えられ、柴田康忠は引き上げた。この安堵状は重く、以後、高島藩は譜代大名に準じた扱いを受ける。
 翌天正12年には、家康の命令で本田康重の娘(後の貞松院)を、頼忠の嫡子頼水が娶り、頼忠の地位は徳川家で不動のものになった。
 頼忠は居城を茶臼山の高島城から下金子に移し、宮川が大きく湾曲した突端に、平城の本丸を築いた。宮川が外堀で、本丸、二の丸、三の丸も備えていた。本丸の東が三の丸で、その堀の外に八幡社を勧請して城の鎮守とした。
 諏訪頼忠が郡主になるが、頼忠は上社大祝・千野氏以下上社系の旧臣を用いた。天正18(1590)年、北条氏の小田原城が開城した年であった。6月10日、家康から頼水宛に書状が届いた。
 「信州諏訪郡のこと、安芸守に先判つかわしたように、今より以後もまちがいなく安堵させるから、いよいよ忠勤を励む事」
 この年に、頼忠が隠居し、長子頼水が領主となった。頼水は家康の命により弟頼定に下社一円の領有を譲るべきとされたが、策謀の末これを追放した。対外的には出奔としている。詳細は歴史の闇の中に消えてしまった。また、下社系の武士は出仕する機会も無く、帰農して村役人におさまったりして、江戸時代を通して、下社系の武士は蕃の重職に就くことはなかった。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm

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