2014年12月22日月曜日

秦系氏族


○ 辰韓の遺民は、辰韓滅亡後百年余経過した頃の応神朝(西暦400年前後)に、弓月君に率いられ百済より来朝して秦造となったが、残余はそのまま韓地に残り、その約一五十年後の欽明元年に百済から来朝し、大和国添上郡山村に居住して己知部(巨智部)となった。わが国における秦系氏族にはもう一派、高陵氏の流れがあり、始皇の三代前の昭襄王の兄弟から分かれている。
  秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比郡黒山郷を本貫とする秦羸姓田主などという人名が見えており、秦羸姓は本来の秦姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。

○ 弓月君の一派は大和国葛城郡朝津間の腋上に土地を与えられ居住したが、その本宗は後に河内国(茨田郡)を経て山城国葛野郡太秦に遷り、この地を中心に 繁栄した。この氏族は、養蚕・機織の技術をもつ伴造として朝廷に仕えたが、大蔵の出納にも従事した氏もある。
  この一族の分布は、葛野郡のほか同国の愛宕・紀伊郡、摂津の豊嶋郡、近江の愛智・浅井郡等に広範にみられ、族人が相当多い。太秦の広隆寺(蜂岡寺)は推古朝に秦河勝造が創始した氏寺であり、氏神は大酒神社(山城国葛野郡、太秦の桂宮院にあり)、湯次神社(近江国浅井郡湯次郷内保村にあり)などに祭られている。一族からでた祠官家としては、山城国松尾の月読宮、伏見の稲荷社の諸家にみられる。

○ 秦氏の系統は中央の朝廷ではあまり高位にあがらず、平安朝末期まで明法道、典薬関係の官人や下級の御随身として仕えたが、官人としては御随身の家たる三上氏が永続したにとどまる。その一方、地方豪族としては薩隅の島津氏、対馬の宗氏(平姓を仮冒)、越中の神保氏(実は別系の可能性も強いか)などを出して栄えている。また、大石宿祢姓の下級官人も中世まで見えるが、のちに紀姓の人が大石宿祢姓を冒した。
 なお、「秦」と書いても、波多・羽田・幡多などの表記からの訛伝もあったようで、それらの全てを秦系氏族とするのは問題もありそうである。


[出典]
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm



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