2014年12月17日水曜日

越前家


越前家
 
 
島津 忠宗(しまづ ただむね)は鎌倉時代後期の武将歌人忠景の子。知覧(院)氏の祖。
和歌に優れ、『続千載和歌集』、『新後撰和歌集』に詠歌が残る。これらの作品は本宗家四代の忠宗の作品とされる場合が多いが、『勅撰作者部類』には「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記があり、また父忠景・子忠秀がともに勅撰作者である家系的な側面から考えても、越前家の忠宗の作とみる方が自然である(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。

島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代武将歌人宇宿氏宇留氏信濃島津氏赤沼家の祖。

信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。

島津忠信(しまづ ただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。

越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
越前国上河北(かみこぎた/現在の福井市上河北町)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、如道上人真宗三門徒派の始祖)に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。
上河北の専光寺は延享2年(1745年)、福井藩の要請によって木田辻町(現在の福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)、明治27年(1894年)9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2年(1244年)の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3年(1261年)以降であり、文永5年(1268年)頃と推測される(詳細は島津忠綱の項目参照)。播州島津家の系図に、忠綱が寛元2年2月7日に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる(杉本、上掲)。

太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に 呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演 じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。




 

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