2023年11月30日木曜日

武石隠岐

 町

横三日町の北に続き末は滝沢町組町に至る。

長4町35間余・幅5間、家数65軒。

東の方に小路2条あり。南の小路は東名古屋町に通し北の小路は田間に通す。文禄の頃(1593年~1596年)行壽という行人この地に住せし故ゆえ町名となれり。この町に年々馬市あり(蚕養宮村と八角分の地雑はれり)。


神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?

創設 建久2年(1191年)~?

この町の西頬にあり。

神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。

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赤沼稲荷

会津統治

 全国を平定した頼朝は、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、荘園や公領の地頭に任命した。

 まず平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、会津の地頭頭になり、のち和泉、紀伊両国の守護に任ぜられる。また、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。

 建久1年(1190)9月15日、源頼朝は上洛し後白河法皇に拝謁、権大納言に任ぜられ、随従した佐原義連は左衛門尉に任ぜられた。

 三浦半島芦名郷の佐原十郎義連の館に一族の主だったものが集められた。

「皆に集まってもらったのは、他でもない頼朝様から賜った会津のことである」長の義連がおもむろに口を開いた。

「実は、会津に入れた草(間者)が帰ってきた。それが申すには、会津では国人衆や地侍達がかなりの兵力を保持していて、その中でも慧日寺衆徒頭の富田氏や国人の松本氏などが勢力をはっているようだ」

「そこで、彼らと争う事は得策でないので、なるべく彼らの土地を買い受けていくことにする。皆は如何かな」

「なんと、それは情けがありすぎる。会津はわれが領地ぞ」盛連の二男広盛が声を荒げる。

「いや待て、父上には何か考えがあるのではないか」当主の盛連が静かにいう。

「うむ、そのとおりじゃ。私は頼朝様から会津を賜ったが、会津の国人衆や地侍達と事を構いたくない。さらに、頼朝様が鎌倉幕府を起こし侍所を設けたのを知っておろう。本家の三浦氏や千葉氏、その他坂東の武者達が要職を欲しがり不穏な気配もある。この地を抜けて会津に向うわけにはいかぬ。」

「だからといって、自分の土地を金で買うとは、この広盛には解せぬわ。」

「広盛、たしかに会津は我らが領地ぞ。しかし、会津を力で押さえつけても、地侍たちは心から我らが臣になるとはおもわない。また、力で抑えても後々、彼らの謀叛に悩まされること畢竟、ここは懐柔策でいくのがよいのじゃ」

「そこで、会津に代官を派遣して、しばらく様子を見よう」

 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、三浦半島の芦名郷(横須賀)から会津の地に代官をおき、国人領主の地侍集団の富田氏や松本氏と事を構えない柔軟な領国経営を行うことにした。

 その時分、相模の豪族山内通基(みちとも)も会津郡伊北郷に里中丸城を築き移り住んでいった。

 さらに小山氏の一族長沼宗政は、会津長江庄に居を構え田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯の管理を始めたので一族の河原田氏も伊南郷の移り住んでいった。

 佐原十郎義連の系図は、桓武平氏で高望王、平広茂、三浦介義明が先祖で、佐原義連(三浦十郎左衛門尉義連)の嫡子・佐原遠江守盛連の時代に会津に代官を置き着々と自分の領地の地固めを行ったのである。

 佐原盛連はその後6人の子供をもうけ、それぞれに会津の領地を分割することになるのである。

 長男・経連には猪苗代、次男・広盛には北田、三男・盛義には藤倉、五男・盛時には加納、六男・時連には新宮、そして四男(後妻の長男)・光盛が15歳で家督を継ぐことになる。

 後に佐原光盛は、三浦半島の芦名郷から名を取り「芦名左京太夫光盛」と名前を変え、さらに初代の芦名氏として芦名遠江守四郎左衛門尉として会津本家を継いでゆくことになる。 

 建久3年(1192)源頼朝が正式に征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した。

 会津では、松本氏やそれに扇動された地侍たちが、あちこちで佐原氏の一族と衝突を繰り返していた。それでも佐原義連は、一族が血気にはやるのを抑えて慎重にことを運んでいた。

 会津に暑い夏がおとずれたある日、会津耶麻郡にすむ信濃源氏出の松本氏の居城綱取城に会津の主だった国人領主と地侍の頭が集まっていた。もちろん会津慧日寺の乗丹坊の子孫で衆徒頭の富田漏祐も参加していた。

 富田氏は会津国人領主として会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築いてすんでおり、一族郎党も多くかなりの軍事力を保持していた。

「おのおの方、よくきてくれました。本日集まっていただいた訳は、書状に示した通り、佐原一族が勝手に我が領土を鎌倉幕府とやらから下げ渡されたとして専横よろしくない所業多く、我らとしても我慢の限界にきている。」ぎょろりと一同を見回し、松本勘解由宗輔(かげゆむねすけ)がいった。

「そこで、皆の衆に忌憚のない意見を伺いたい」

「ではまず松本宗輔殿には、如何なるご所存でおりますか、お話いただけましょうか」富田氏が口を開いた。

「さよう、この会津は、会津磐梯山が噴火以来、荒地を我らが先祖が汗を流し耕作し、これまでにしたものである。それを、なんじゃと、平泉の藤原氏を滅ぼした勲功で、この我らが会津の土地を勝手にくれてやるとは、承知できぬ。」

「また、近頃聞くところによると、金銀に目がくらみ、先祖伝来の土地を手放す地侍がおるという。なんと、嘆かわしい次第だ。我ら松本一族は、決してこの土地を手放さぬ。」

「金銀に目がくらんだと申すが、放置してある価値のない荒地を手放しただけで、松本氏に非難されるいわれはない。」地侍の一人が叫んだ。

「まあ、待て、重要な事は今後佐原氏に対してどう対応するかであろう。万一、我らに敵対する意向があると見られては、鎌倉幕府の軍勢が押し寄せるやも知れぬ」富田氏がいう。

「さらに、我らが会津に住む国人や地侍の方々が、一つの心で鎌倉幕府に当れるか、如何かな」

「鎌倉幕府の軍勢が幾ら押し寄せようと我ら松本一族で撃退してみせるわ。嫌な者はここから去るがよい」松本勘解由は不機嫌にいった。それからの談義は、堂堂巡りで何も図る事がなかった。

 下荒井の館に戻った富田漏祐のもとに一族が集まってきた。

「して談義はいかにまとまりましでしょうか」郎党頭の荒井太郎左衛門が口を開いた。

 荒井氏は、源頼朝の藤原征討に加わったもと坂東武者・二科太郎光盛の後裔で、大沼郡横田村に中丸城(本丸、二の丸、三の丸の無類の要害城)に住む富田氏の2女の娘婿である。

「松本氏には困ったものだ。あのように荒っていては、何もはかどらぬ」

「戦となるのでしょうか」まだ幼い富田範祐がいった。

「わしは戦を好まぬ。一族郎党の者の中には、いままで戦で親や兄弟を失ったものが多くいる。これからも戦はあろうが、極力争いは避けたい。」

「しかし、相手が攻めてきましたら戦いましょうか」

「攻めてきたら、この富田一族の力を、目にものみせてやるわい。」漏祐はにっこり笑っていった。

「皆の衆も、此方からは戦を仕掛けぬが、何時敵が攻めてくるかも知れぬので、武具などの手入れと兵糧の準備を怠り無くしておくように。」漏祐は皆に命じ帰宅させた。

会津統治2(源頼朝死去)

正治元年(1199)源頼朝が落馬がもとで死去してしまった。源頼家が家督を相続したが、北條時政は頼家の親裁を停止し13人の合議裁決制を定めてしまう。

 そして、梶原景時が敗死し、庇護を受けていた城長茂の乱と死、板額の乱と鎌倉幕府はいそがしい時を経るが、建仁2年(1202)源頼家が征夷大将軍になる。

 しかし、源頼家の実権は北条氏に握られていたため、頼家は病んでしまい、とうとう関東を子の一幡に、関西を弟の千幡(実朝)に分与してしまった。しかし、実権は実朝が握り始めたので、おさまらないのは、北条政子。一幡を生んだ源頼家の妻の実家比企能員(ひきよしかず)を味方に引き入れた。

 比企能員は武蔵の豪族で妻は源頼朝の乳母で、娘が源頼家の妻であった。比企能員は、娘が生んだ一幡を将軍後継にするため北条時政を討たんとするが失敗して一幡とともに殺されてしまい、源実朝が征夷大将軍になった。

 しかし、北条時政が政所別当(執権)となると、源頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまい、結局、源頼家は翌年殺害されてしまうのである。

 元久1年(1204)、諸国で地頭たちが勝手な振る舞いをして年貢を納めないなどの乱行が続いた。この年に芦名光盛が佐原盛連の4男として生まれる。光盛ら3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、会津四郎左衛門尉、左京大夫と称していた。のちの建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗ることになるのである。

 元久2年(1205)北条時政は、女婿平賀朝政の将軍擁立をするため源実朝の暗殺をはかるが失敗して引退してしまい、このため北条義時が執権になる。

 承元1年(1207)専修念仏が禁止され、法然が讃岐に親鸞が越後に流される「承元の法難」などが起こり仏教弾圧が行われた。

 1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。

 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。

 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。

 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。

 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。


菅原氏の由来


天穂日命の後裔、野見宿禰に始まる大和国添下郡菅原庄を本拠とします土師氏が、天応元年に菅原宿禰を賜り、延暦9年に朝臣姓に改められる。

菅原氏は学者として朝廷に仕え、道真に至り右大臣に昇進しますが、藤原氏の讒言により太宰権師に左遷され2年後に配所で死去した。

子息は官途に復して代々文章道を家職としてきた。

堂上家としては、高辻家、唐橋家、五条家、清岡家、桑原家、東坊城家の6家あり。

武家菅原氏としては中世南朝方についた美作菅家党があり、大名家の前田氏(4家)、久松氏(4家)、柳生氏も出自は菅原氏と称す。

なお、早稲田大学創立者大隈重信は菅原姓を称する佐賀藩士大隈信保の長男で、明治の政官界で活躍する。

https://www.nextftp.com/well/roots/new_page_8.htm

有元佐弘

 落魄して見ると昔のよき時代がしのばれる。美作の菅家一族は他の小豪族よりも群を抜いていた。しかも、仇花には過ぎなかったが、天皇権力の奪回という日本歴史の一頁に関係のある元弘の戦いに、一族一党を挙げて参加したという矜持がある。何一つ報いられなかったこの先祖たちの心情は、誠心南朝に殉じた楠正成党に一片通じるものがあるではないか。この先祖たちの祖満佐こそ、時代が百年遅れておれば美作の楠正成であったかも知れぬ。正成は日輪の申し子である。満佐もまた天の星、地の霊、山の霊の申し子でなければならぬ。大蛇は氏族の首長の象徴である。奈義の山霊の大蛇の母から生まれたのが三穂太郎満佐である。この祖にして、はじめて流星のように消えた子孫たちが生まれたのである。

この輝ける御先祖に申し訳ない限りである。世は戦国であれば、また、家名を挙げる機会があろうが、今は無力な蚯蚓切りの百姓だ。だが、そこいらの水呑み百姓とは違っているのだ。どこが違っている。だから家柄だ。ここで満佐は菅家党の願望を担って大人様の伝説と結びついたのだろう。

満佐の子孫、有元佐弘らが後醍醐天皇の京都還幸を助けたことは『太平記』に記されている。その功により佐弘は従四位など、一族が大正年間に贈位されている。

楠公への対抗心、それが菅原満佐を巨人・三穂太郎へと成長させたのだという。菅家党の共通の祖である菅原満佐は禁中を守護する役目まで仰せ付かっている。さらに、南北朝期には一族の有元佐弘が後醍醐帝を助けて京都で戦死している。こうした記憶が重ねられ、京都まで三歩で歩いた巨人像が創り出されたのだろう。

美作の巨人は、常陸のダイダラボウのように『風土記』に記録された未確認生命体ではない。その正体は、武士団としての栄光の記憶、「誇り」だったのである。

https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/08/%E4%B8%89%E7%A9%82%E5%A4%AA%E9%83%8E.html

赤松久範

 菅原朝臣三穂太郎満佐亦三歩太郎兼実とも號す。菅原菅家は其先右大臣菅原朝臣道真公七世の裔孫、菅原朝臣従四位下知賴公、承暦元年美作守として下向、豊田庄に住するに仍て興る。其嫡菅秀才眞兼は美作国押領使となり、其嫡尚忠亦號是宗は民部介、その勢は国府を席捲す。室久米錦織郷秦豊永の女、亦、室の姉は久米押領使漆間時国の室也。尚忠の嫡民部介菅四郎仲賴は開発領主として高円邑に大見丈城を築き、近郷の武士団を糾合、美作菅家党の基盤を創る。三穂太郎満佐公は其嫡として養和元年誕生、母は二階堂藤原維行の女、長じて知仁勇萬人に優れ、在地で朝臣となり京都禁中を守護し玄蕃頭に任ぜらる。亦美作守として治世其武威は遠く備前備後備中亦因幡播州にも及ぶ。室豊田右馬頭の女、天福二甲午九月十五日に赤松久範佐用の地に戦闘死、行年五十二才。後頭は三穂明神に右手は梶並の右手明神と足は因州智頭の河野明神として祭られ、亦荒関明神杉明神三崎明神諾明神として崇敬、これ等は美作太平記作陽誌赤松氏文書津山市史中世編等によって知る事が出来る。満佐公の嫡有元筑後守忠勝、廣戸豊前守佐久、福光伊賀守周長、植月豊後守公興、原田日向守忠門、鷹取備前守佐利、江見丹後守資豊、亦説に弓削佐渡守忠文、垪和越前守資長、菅田志摩守佐季を加え、美作菅家党は夫夫を祖として累代団結親交を強め、文永弘安の役は鎌倉幕府御家人として博多に遠征、元弘建武の乱には帝を奉じ国難に殉じ党族を挙げて忠戦、尓来幾星霜戦国群雄割拠の時も他族からの侵掠を許さず、栄枯盛衰平成の御宇迠、一族繁栄し党族八十八氏家を数う。茲に満佐公生誕八〇〇年を記念し顕彰記念像を建立、公の遺徳を讃え後世に伝う。

菅原道真七世の孫という知頼であるが、おそらくは道真-高視-雅規-資忠-薫宣-持賢-永頼-知頼と続くとするのだろう。知頼からはこうだ。知頼-真兼-尚忠-仲頼-満佐と続く。道真公を初代と数えれば12代目となる。その満佐を祖として菅家七流が栄えていく。中世美作を代表する武士団、美作菅家党である。

満佐が赤松久範と戦って敗死した天福二年は1234年である。赤松久範は有名な赤松円心の祖父に当たる人物である。


右手三社大明神

 美作市大字右手小字中右手の北にある右手(うて)三社大明神は、三穂太郎伝説で有名な菅原朝臣満佐(みつすけ)、菅原道真、猿田彦が祀ってあります。

社殿は梶並川の中州に造られており落ち着いた佇まいの神社です。

創建はおそらく13世紀後半ではないかと推察されますが、いまも右手姓の右手忍さんが(代々)管理をされています。

菅原朝臣満佐(みつすけ)は菅原道真公より13代後の末裔にあたり、知仁勇に優れていましたが、1234年9月15日に赤松久範と佐用で戦い、52才で討死しました。

死後、頭(こうべ)は奈義町関本の三穂明神(こうべさま)、右手は梶並の右手(うて)大明神、肩の部分は智頭町土師のにゃくいちさま、胴体は奈義町西原の荒関荒神として祀られ美作菅家党の基盤を創りました。

満佐公は歴史上の実在人物で、別名三穂太郎とも呼ばれおり 「那岐山の頂上に腰をかけ、瀬戸内海で足を洗い、京の都まで三歩で行った」と言う伝説も残っております。

https://blog.goo.ne.jp/ktomisaka/e/ccfa704ef52498de549d6153122dcac7

美作と信濃―小泉小太郎とさんぶたろう

 小泉小太郎とさんぶたろうの伝説を比較すると、母である竜神(大蛇)から生まれた息子(さんぶたろう、小泉小太郎)が、母から授けられた力で世界を創造する、というよく似たストーリーの構造を持っており、また、その他にも類似点が多いことに気づかされるのである。

※注釈k3-b:信州は、地下の国に降った後、大蛇(龍神)になって地上に戻ってきた甲賀三郎など、蛇に関する伝説が数多く残っている地域でもある。(注釈k3-bここまで)

小泉小太郎の伝説には、地域によってさまざまなバリエーションがあるが、『日本の民話17信濃の民話』瀬川拓男氏の再話によると、概ね次のような内容である。
※注釈k3-c:「信濃の民話」編集委員会編;江馬三枝子編『定本日本の民話17信濃の民話 飛?の民話』未来社 1995.5.該当ページはp.175~183.(注釈k3-cここまで)

むかし独鈷山というけわしい山に、若い坊さまのすむ寺があった。いつの頃からかその坊さまのところへ美しい女が通ってくるようになった。
不思議に思った坊さまは、ある夜、そっと女の着物に糸のついた縫針をさしておいた。
夜があけてみると、糸は庭をぬけて山の沢を下り、産川の上流にある鞍淵の大きな石のところまでつづいていた。
ふと岩の上を見ると、生まれたばかりの赤児を背にのせた大蛇が苦しそうにのたうっている。大蛇は坊さまに気がつくと、「こんな姿を見られては生きていることはできない。針をさされたので鉄の毒も体にまわった。どうかこの子をたのみ申します。」といって赤児を岩の上におろし、ざざーっと水煙をあげて淵の中へ姿を消してしまった。
坊さまは恐ろしさに震え上がり、赤児をそこに残し、逃げ帰った。

その後、大水で川に流された小太郎は、小泉村というところで婆さまに拾われて育ち、湖に住む母(大蛇=犀龍)と再会し、協力して湖をせき止めている山を切り崩し、土地を開拓することになる。
なお、湖から流れ出た水は犀川になり、湖が干上がって生まれた土地は、現在の松本、安曇の両平野になったといわれている。

伝説では、小泉小太郎の母(大蛇=犀龍)が住む湖は、周囲を山に囲まれており、大昔に天の神が練っていた五色の石のかけらが地上に降ったとき、えぐれてできたのがこの湖で、飛び散った石のかけらが周囲の山になったとされている。
また、別の伝説では、天の神を「女神?氏」としており、五色の石で天の裂け目を修復した中国の女神女?氏のことであろうと考えられる。
なお、五色の石は、陰陽五行説でいう世界を構成する五つの要素〔エレメント〕であり、世界を創造する力の象徴と考えられる。
※注釈k3-d:長野県図書館協会編『信濃伝説集 信州の伝説と子どもたち』(信州の名著復刊シリーズ2)一草舎 2008.該当ページはp.198-199.(注釈k3-dここまで)
※注釈k3-e:さんぶたろうと女?のつながり、陰陽五行説との関連性については、『大いなる巨人の伝説』第2部本編で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-eここまで)

このように、母が竜神(大蛇・蛇神)であること、母子神としての性質を備えていること、息子が母から受け継いだ創世の力を操り、治水や開墾などの偉業を成すことなど、多くの点でふたつの伝説は共通しているのである。
※注釈k3-f:さんぶたろう親子の母子神としての性格については、『大いなる巨人の伝説』第1部所収の「閑話休題(1)たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて」で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-fここまで)

美作と信濃という、離れた地域のふたつの伝説に以上のような共通点が見られるのは大変興味深いことであり、今後、その成立過程を比較していくことで、ストーリーの共通点以上の、何らかのつながりが見えてくる可能性も考えられる。
(閑話休題(3)ここまで/引用・参考文献につづく)

 https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

ナーギ

インド生まれのナーガ【Naga】k-1aという神がある。

紀元前200年頃に成立したバラモン教の聖典のひとつ『リグ・ヴェーダ』(リグは賛歌、ヴェーダは聖典。つまり神々の賛歌であり、創造神話である)の中にたびたび現れる強力な種族である。

※注釈k-1a:ナーガはサンスクリット語で「蛇」を意味し、コブラを神格化したもの。ヴェーダの神々と同様、超越的な存在ではあるが、正確には神々とは異なる存在である。(左本文では便宜上「神」と記述している)神々と人間の敵対者であり、協力者でもある。(注釈k-1aここまで)

 

もとはアーリア人の間で信仰され(あるいは先住ドラヴィダ人の時代、すでに原形が出来上がっていたともいわれる)、現在でもヒンドゥー教の神としてインド文化圏で広く信仰されている。

また仏教とともに中国に渡ったナーガは、天龍八部衆に加えられて竜王と同一視されるようになる。奈良興福寺にある国宝天龍八部衆像の一体である沙羯羅竜王などがそうである。
※注釈k2-b:天龍八部衆
仏法を守護する8つの種族。天・龍〔梵語Nagaの音訳〕・夜叉〔Yaksa〕・乾闥娑〔Gandharva〕・阿修羅〔Asura〕・迦樓羅〔Garuda〕・緊那羅〔Kimnara〕・摩羅迦〔Mahoraga〕。(注釈k2-bここまで)
※注釈k2-c:沙羯羅竜王は沙迦羅ともいい、サンスクリット語で海を意味するサーガラ〔Sagara〕の音訳。あるいは摩羅迦ともいい、サンスクリット語のマホーラガ〔Mahoraga〕の音訳で、大腹行(だいふくぎょう)、大蟒神(だいほんじん)と訳される。(注釈k2-cここまで)

これが那岐の語源にどう関係あるかというと、古代インドの雅語(主に貴族や神官が用いた)サンスクリット語で蛇を意味するナーガの女性形をナーギニーというのである。また地域によってナーギニーはナーギとも呼ばれるそうである。
蛇である上に「ナーギ」。まるで言葉遊びだが、海を渡った女神が、安住の地を求めてたどり着いた東の島国で大地の守り神になる・・・これだけで物語のネタがひとつできそうではある。

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土師氏

 『日本書紀』垂仁天皇三十二年条には、天皇の陵墓を作るにあたり土師氏の始祖が出雲国の土部(はじべ)を集め、「埴(はにつち)を取りて、人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)」って殉死にかえたとあり、この功績によりもとの姓をあらため「土師臣(はじのおみ)」を名乗っている。

この記述をみてもわかるとおり文字どおり土を司る集団であり、古代においては陵墓の造営、土器(土師器)製作などにたずさわった。
その後、『続日本紀』天応元年六月壬子条によれば、土師宿禰古人・道長ら十五名が、葬儀や墓づくりなど凶事ばかりにかかわるのは自分たちの本意ではないとして、支配地の一つ、大和国添下郡菅原郷(現在の奈良市菅原町一帯)にちなみ、菅原氏に改姓することを誓願し許されている。
因幡国(鳥取県)には土師氏にかかわる地名が数多く残っており、たとえば鳥取市内では大野見宿禰神社、智頭町では埴師(はにし)、同じ八頭郡郡家町には土師川などの名が残っており、八頭郡一帯に土師氏の支配が及んでいたことがわかる。
以上のことから、さんぶたろうの腕が那岐山を飛び越えて因幡国にたどりつくエピソードは、にゃくいち様とさんぶたろうに共通する母子神としての性格に加え、土師郷周辺が菅原氏に関わり深い土地であることを暗示しているとも考えられはしないだろうか。
『東作誌』を見ると、現在の奈義町にあたる地域に限っても童子神を祭る神社が多数見られ、その霊威とさんぶたろうを結びつけるだけなら、河野神社の若一王子権現の名を持ち出さずとも、これら近在の社でよいはずだからである
※注釈k1-e:町内の王子社
馬桑村の御子神、今若宮、小坂村の若宮、王子権現、皆木村の若宮二社、近藤村の大領権現〔祭神熊野権現。母御の宮、十二社権現、新宮、本宮、那智、当御霊、稲荷社等あり〕、沢村の若宮八幡、中島村の若王寺権現、荒内村東分の王子権現〔中島村入会の地也中島西荒内東小氏神祭神八王寺〕、荒内村西分の王子社など。
なお若宮とは一般に主祭神〔親神、本宮〕の御子神〔新宮〕を祀ることで、民間信仰では非業の死を遂げて御霊〔祟り神〕となった人の魂をいい、祟りの激しい御霊を、より霊威の強い神霊の若宮〔御子神〕として祀ることにより、祟りを鎮める信仰のことをいう。(注釈k1-eここまで)
https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

土木・葬礼集団土師氏

 満佐が菅原道真の子孫であることは先に述べたが、伝承中、彼が菅原氏であることと無関係でないと思われる興味深い記述がみられるのであわせて紹介しておく。

伝説ではさんぶたろうが死んだとき、その亡骸のうち頭部は関本の里(=三穂大明神。こうべさま)、胴体は西原の里(=荒関大明神。あらせきさま)にとどまったが、かいな、つまり肩と腕の部分だけがどういうわけか、那岐山を飛び越えて遠く、現在の鳥取県八頭郡智頭町土師にたどりついたことになっている。
さんぶたろうのかいなが祀られた場所は現在の河野神社といわれており、「にゃくいちさま」の名で親しまれている。
手足の病気に御利益のある神社といわれているのも伝承に関係あると思われる。
ところで、中国山地を挟んだ反対側にある河野神社とさんぶたろうの伝説がむすびつくのはなぜだろうか?
河野神社の祭神若一王子は、もと熊野から勧請された神格で、熊野権現の第一王子とされる。
 仏・菩薩が人間世界に権能(ちから)を及ぼすために日本の神の形を借りて現れたものを「権現」といい、熊野権現の御子である若一王子自身、正体は天照大御神あるいは泥土煮尊(ウヒヂニノミコト)であり、十一面観音菩薩を本地とする。
神が化身した聖なる童(=王子神)に対する信仰を「王子信仰」という。
子供に聖なる力が宿るという信仰は古くからあり、『日本書紀』神代上第五段にはすでに、海神(わだつみ)をあらわす「少童」という表現が見えるし、八幡神などは化身である鍛冶の翁の童姿で現れたりしている。
鍛冶の翁は、自分のことを応神天皇であると託宣を下したといわれており、これは応神天皇が幼時から不思議な力を発揮したことに関係あると考えられる。
若宮信仰、御子神信仰などもこれらの延長線上にあるといえる。
※注釈k1-b:『扶桑略記』第三欽明天皇三十二(571)年辛卯正月一日条によれば、宇佐八幡縁起によるとして、
又同比(おなじころ)、八幡大明神筑紫に顕わる。豊前國宇佐郡厩峯(まきのみね)と菱瀉池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁あり。甚だ奇異なり。之に因りて大神の比義は穀を絶ちて三年籠居し、即ち御幣を捧げ祈りて云わく。若汝(もしなんじ)神ならば我が前に顕わるべしと。即ち三才の少児と現れ、竹の葉に立ちて託宣して云わく。我れは是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡麿なり。
とある。なお誉田天皇とは誉田別尊(ホンダワケノミコト)=応神天皇のこと。(注釈k1-bここまで)

 

また王子神は、しばしば巫女的な性質を持つ母親とセットで母子神として信仰される場合が多く、たろうを王子神、大蛇(=母)を巫女的母に当てはめると、両者がよく似た関係にあることに気づかれるだろう
※注釈k1-c:先に述べた応神天皇(誉田別尊)と、その母神功皇后(息長足媛〔オキナガタラシヒメ〕)の関係などはその一例である。(注釈k1-cここまで)

河野神社の若一王子権現がいつごろ勧請され、どのような経緯でさんぶたろうと結び付けられたか定かでないが、王子神の霊威を物語に導入するため、意識的に両者を結びつけたのかもしれない。
他にも理由は考えられる。
仮に伝説の記述が歴史的事実の投影だとすれば、たとえばにゃくいちさまの霊験(はっきりしたことはわからないが、手形足形など症状のある部位をかたどった形代を奉納する風習は四百年ほど前からのことらしい)だけでなく、もしかしたら「土師」の地名それ自体とも無関係でないかもしれない。
というのも、さんぶたろうの祖先菅原氏の系譜をさかのぼると、古代の土木・葬礼集団土師氏にたどりつくからである。

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宇合頼資

『東作誌』所収の有元家略系図にも次のような記述があり、先の記述と一致する。

(略系図ここから)仲頼(菅四郎 高円村大見丈城主)

→公資(実筑後守藤原頼資子 母二階堂維行女)

→公継(頼資二男公資弟)

→満佐(仲頼実子改兼真三穂太郎名木山城主、妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流祖也。)(略系図ここまで)

※注釈1-2a:『東作誌』

正木兵馬輝雄著。文化12(1815)年成立。著者の正木輝雄は津山藩士であり、元禄4(1691)年成立の地誌『作陽誌』(江村宗晋撰;長尾隼人勝明編。美作国の西6郡のみで未完に終わっている)を補うため、東6郡(東南条、東北条、勝北、勝南、吉野、英田)の地誌として編纂された。異本が多数存在するが、本稿は『新訂作陽誌』全8巻(作陽新報社刊)所収のものを参考にした。

これらによると太郎の母はもと二階堂姓であり、保元の乱の折、敗れた新院(崇徳天皇)側に与していたため作州へ配流された最初の夫藤原(宇合)頼資とともに奈義の地にやってきたことになっている。(注釈1-2aここまで)

※注釈1-2e:満佐の子孫が有元姓を名乗ったのは、名木(那岐)山のふもと[元]に[有]ったからとも、宇合氏の血が入ったため(宇合・有元とも、音読みではウガン)ともいわれている。(注釈1-2eここまで)


その後夫は亡くなり、太郎の母は二人の息子公資、公継を連れて有元氏に嫁ぐことになるが、そこで生まれたのが太郎丸、後の三穂太郎満佐である。

つまり、仲頼にとって初めての実息が満佐であり、三男満佐の幼名が長男をあらわす「太郎丸」であることは、そのあたりの事情によるのだろう。

有元家略系図の名が出てきたので系図中、「外祖」とされる人物についても少し触れておくと、満佐が藤原千方(ふじわらのちかた)から仙術を伝授され、自在に空を飛んだという記述がある。

藤原千方は『太平記』巻十六日本朝敵ノ事によれば、

天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者ありて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふを使えり。伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因りて紀朝雄・宣旨を奉じて下り討ち、千方遂に殺さる。

※注釈1-2f:天智天皇の御宇→金勝院本では、恒武天皇とされる。(注釈1-2fここまで)


また『准后伊賀記』に

藤原千方朝臣・村上天皇の御宇、正二位を望みしに、其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉つて、伊賀国霧生郷へ籠居す。紀朝雄と云ふ人・副将軍となりて之を討つ。


とあり金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼の力を操り朝廷に反逆し、伊賀伊勢両国を支配したといわれる伝説の人として、『太平記』では平将門、平清盛らに比肩される朝敵の一人として挙げられている。

※注釈1-2g:『尊卑文脈』によれば、藤原秀郷(ムカデ退治で有名な俵藤太である)の孫に千方という人物があり、村上天皇の治世とほぼ一致する。ただし、知られる限り正史にはこの千方が反乱を起こしたという記録はない。(注釈1-2gここまで)


千方は天智天皇(662~671)の御宇の人とも平安時代の人ともいわれ確かなことはわかっていない。どちらにしても太郎の生きた鎌倉時代とは隔たりがあるが、朝廷軍を退けるほどの方術の持ち主であるから、異常な長寿であったとされたのかもしれない。

ちなみに千方が使役した四鬼は、式神(しきがみ。陰陽道で術者に使役される精霊。識神とも)とも忍者ともいわれている。

話を戻そう。

満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也

満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行・・・


有元家略系図で千方は「外祖」と呼ばれている。はじめ母の前夫藤原氏と同姓であることから、その父親(満佐の祖父)とも考えたが、外祖は外祖父、つまり母方の祖父をあらわす言葉であり、つじつまがあわない。

母方の二階堂氏との関係も考えたが、先に述べたように系図上母方の祖父は二階堂維行である。

仮に千方が父方に連なる人物であるとすれば、兄にとって血のつながった祖父、母の義父であり、満佐にとっても血縁関係こそないもののつながりのある人物という程度の意味で「外祖」と表現されているのかも知れない。

あるいは二階堂氏は元をたどれば藤原姓であるから、同姓の千方に仮託して太郎の不思議な能力を権威づけしようとしたとも考えられる。

※注釈1-2h:『美作太平記』などによれば、宇合頼資の先祖は俵藤太とされており、そこに連なる千方(1-2gでいう朝敵でない方の)とも系図上つながることになる。同姓同名の千方どうしを二重三重にひっかけているのかも知れない。(注釈1-2hここまで)

(2-2節ここまで/第2章ここまで/閑話休題(1)につづく)

近藤武者是宗此国

 伝承によればさんぶたろうの母は蛇精であったと伝えられている。

太郎の母がなぜ大蛇なのか、またなぜ太郎が巨人でなければならなかったか、その意味については第二部以降で推理するとして、ここでは系図上の母親の出自について考えてみたい。
『東作誌』是宗村の項に次のような記述がある。
相伝う近藤武者是宗景頼の子宇合筑後守頼資保元の乱に新院に興し奉り作州豊田庄に被配流、其邑を近藤村と称す。
或は云う平治の乱に近藤武者是宗此国に来り死す。近藤村と云う。是宗村と云ふ。其の子二人あり兄公資。(一説に父は頼資藤性母は二階堂維行女なり)
二男公継此の二子を連れて有元家にす。


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三穂太郎満佐

 『東作誌』所収の有元家略系図に、三穂太郎満佐について次のような記述がある。

(略系図ここから)菅丞相道真公八代(道真公子高視、其子緝熙、其子資忠、其子良正、其子薫宣、其子持賢、其子長頼)→菅原長頼の子 知頼(作州へ配流、美作守とす。嘉保年中作州勝田郡に卒す。是美作菅家之元祖)→真兼(美作押領使、保安元年庚子於久常村卒)→尚恕(民部介改是宗)→仲頼(菅四郎、高円大見丈城主)→満佐(仲頼実子)(略系図ここまで)
また、
満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也。満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行或云播州中山村佐用姫明神通妻妬而殺満佐干時天福二年甲子九月十五日満佐五十二才也満佐屍解飛去数仙不知其終干今祀其霊。豊田庄氏神矣関本亦三穂太明神之宮祠則祭日九月十五日也

とあり、これらの記述によると、満佐は菅原道真の子孫であり三穂太郎と号し、名木山(那岐山)に城を構え、豊田右馬頭の娘との間に七人の子をもうけたことになっており、また飛行の術を自在にあやつった異能の人であったともいう。
なお、文中の「屍解」とはおそらく「尸解」のことであろうと想像される。
「屍」と「尸」はどちらも音通で人間のしかばねをあらわす漢字であり、尸解とは死後、肉体をもったまま仙人になることである。満佐は死後、昇仙したのである。
今でも那岐山麓のどこかで、子孫たちの営みを静かに見守っているのかもしれない。

※注釈1-2b:『抱朴子』
東晋の神仙思想家葛洪(283~343)は『抱朴子』という後世の神仙思想に多大な影響を与えた書のなかで、『仙経』にいうとして、「上士は飛挙して虚空にのぼる。これを天仙という。中士は名山に遊ぶ。これを地仙という。下士はまず死んで、そののち蛻(もぬ)く。これを尸解仙という。」と述べ、いったん死んで亡骸を脱ぎ捨てた後、しばらくして再び肉体を取り戻して復活することで不老不死になった者を「尸解仙」という、とある。内篇20篇、外篇50編からなり、内篇では主に仙人になるための理論と実践が述べられている。(注釈1-2bここまで)

 

また同じく植月家略系図には
(略系図ここから)菅原道真公(菅亟相道真公男延喜元年辛酉美作国下向無帰而卒作州菅家之祖菅公之子男女凡二十四人)→真俊→好直→矩直→直賢→行泰(延喜承徳之間百九十餘年美作国勝田郡豊田庄為処士)→仲頼→康政→高堅→公興(民部輔五位下七十二代後鳥羽院建久九年戌午領知作州勝田郡続父学才)→満佐(三宝太郎叙従五位下美作国勝田郡是宗城主云々)(略系図ここまで)
とあることから、菅原道真の子孫にして三宝太郎と号し、是宗城主であったことになる。
文化10(814)年ごろ皆木保実によって著された『白玉拾』豊田庄是宗村の項に
三穂太郎は、豊田修理之進の聟と云い、菅家七流の祖と聞伝ふる
という記述がみられる。
三穂太郎が三宝太郎、名木山城が是宗城、妻の父親が豊田右馬頭であるところを豊田修理之進になっているなど細部はことなるが、総合すると満佐は、菅原道真の子孫を名乗り、代々那岐山麓一帯に勢力を張る地方領主の一人であり、菅家七流の祖であることでおおむね一致している。
※注釈1-2c:菅家七流
一般に有元、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の家を指すといわれ、廣戸のかわりに野上、鷹取のかわりに豊田とする説もある。また福元、弓削、垪加、菅田などを加える場合もある。(注釈1-2cここまで)

満佐はいったいいつごろに生きた人だったのか。
系図は編纂者の都合でさまざまな改ざんが加えられるのが常であるから、本当のところはわからないとしかいいようがない(満佐にしても、有元略系と植月略系ではすでに内容が異なる)が、仮に当時の平均寿命を約50年、家督を譲られてから約20年で世代交代するとして、『東作誌』有元家略系図中、満佐の三代前、保安元(1120)年卒の真兼を基準にすると満佐は1160年代から80年代にかけて活躍した人ということになる。
また、有元略系には天福2(234=文歴元年と改元)年52歳卒とあるので、逆算すると寿永2(1182)年に生まれたことになり、先の概算と活躍年に60~80年ほどのずれを生ずる。
その他、『美作略史』では文歴2(1235)年卒、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』では父実兼と母が弘長3(1263)年に出会い、まもなく生まれたことになっているので、太郎は1263~4年生まれになる。50歳で死んだとすれば1310年代前半である。
※注釈1-2d:『美作略史』
全4巻。矢吹正則著;矢吹金一郎校正。明治14(1881)年発行。和銅6(713)年から明治4(1871)年に至る美作地方の歴史を編年体で記録した歴史書。本稿は『美作略史』(1976年、名著出版刊)のものを参考にした。(注釈1-2dここまで)

ごらんのように、資料によって満佐の活躍年代にはかなりの時代的隔たりがみられるが、仮に『東作誌』有元家略系図によれば鎌倉時代中期、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』によれば鎌倉時代末期の人ということになる。

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美作菅家一族

 この物語は正慶二年四月、一族三百余騎を従えて官軍に属し賊軍武田兵庫之助が率いる一千余騎と京都四條猪の熊に戦い、はなばなしく討ち死した元弘の忠臣、さきに贈位の恩典に浴した美作菅家一族の祖先にまつわる恋の悲劇。

※注釈1-1j:蛇淵の伝説→『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)より。本書によれば、底本は1968年4月、西山薫氏蔵の書写したものを転書した、原本は西原あたり?とある。(注釈1-1jここまで)

 

頃は弘長三年三月、連山の雪も溶けてここ菩提寺の境内、谷間洩れる鶯の音に、梅も散り花は桜の満開となった。
あちこちから杖をひく数限りのない花見遊山の客、その中に所も知らず名も知らず噂の種の女が一人あった。(本伝説の主人公三穂太郎満佐の実伝には彼女を次の如くいっている)
年の頃二八ばかりになる女、凡人とも見えず、白姿の小袖に上は唐綾を四季の模様に染め分け、春の弥生のあけぼの霞に匂い、梅ケ枝に初音を知らす鶯茶、左右の袖は夏来にけらし、白妙の卯の花に時鳥、腰の模様は目にはさやかに見えねども、秋の千秋の花紅葉、妻恋ふ塵も愛らしく、袖は難波や葦の葉に、積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に、鴛鴦の浮ねの思いは思い、揺られ揺られる風情して、露を含める海棠の、綻びかかる眼元にてかつらの眉墨細々と、たんかはの唇鮮やかに、芙蓉の眉尻いと気高く、誰が袖ふれん心地して、心ときめくばかりなる。
かくして彼女は朝の霞の中にぼんやり姿を現しては夕暮るる頃、何処となく消えてゆき、噂は噂を重ねるばかりで、花よ花よとたはむれる遊山客さえ、まだ一人として彼と話をしたものはなかった。
さてその謎の女、気高い天女は果して何人の為に手折られたであろう。
美作の菅家は菅原亟相道真二十余代の後胤が、故あってこの国に下らせ給い、子孫栄えて菅家の三流と称し、兄弟三人は勝田郡五ヶの庄を領していた。
うち豊田の庄の領主を菅原実兼と呼んだ。実兼は文武両道の良将で、殊に和歌の道に達し、なお稀にみる美男子であった。
この実兼が彼の女を見染めたわけである。
ここから歌のやりとりで話をすすめよう。
実兼は、「春雨に見る花なれど今年より 咲き始めたる心地こそすれ」と詠んで、僧長光になかだちを頼むわけである。
そして次の和歌を託すのである。
はぢも知れ涙の川の渡守 こぎゆく舟にまかす心を
技高き梢も折れば折れるらん およばぬ恋もなるとこそ聞く
長光坊はこの歌を持って彼の女にあい、その意を告げるがなかなか受けてくれない。
そこで長光坊は
言ひすつる言の葉までに情あれ ただいたずらに朽ち果つる身を
とよんだところ、彼の女は次の歌を返した。
心より心迷はす心なれ 心に心こころ許すな(女)
恋ふれども人の心の觧けぬには 結ばれながらかへる玉章(長光)
恋ふるとも主ある人は觧けまじき 結びの神の許しなければ(女)
これから実兼と女との間に恋歌のやりとりが行はれ、彼らの姿は毎日菩提寺境内に見られるようになった。
即ち次のような歌である。
哀れとて人の心に情あれな 数ならぬにはよらぬ歎きを(実兼)
哀れとて人の心に許あれ 数ならぬともままならぬ身を(女)
海も浅し山も眼になく吾恋を 何によそへて君に言はまし(実兼)
道ならむ道と思へば吾心 何によそへて君に答えん(女)
紅に涙の色のなり行くを 幾しほまでと君に問はばや(実兼)
一花に思ひ始めたる紅の 涙の色はさめもこそすれ(女)
こうして歌に、思いをかけているうち、慕情つのるばかりの実兼は、とうとう次の歌に、ほか八首を添へて彼女に渡した。
思へども合ふことかたき片糸の いかにいつまで結ばれるらん
ところがこれに答へて次の様うな判じ物が女からきた。
即ち「モ」の字が四字と「ノ」の字、その下へ弓張月と「刀」の絵をえがき、「心」といふ字があった。
実兼はこれを、二十三日夜忍ぶ、と觧してその日を待ち、遂に思いをとげたのであるが、その時「過ぎにし頃見染めて以来文、玉章こそ交わしたれど、何処の何人とも知らず、かく情の契りを結ぶからは、どうか心おきなく語って貰いたい」とかきくどいたのだが、女は唯許しを乞ふばかり、そこで
契りおき相見る夜半の睦言の 哀れを知らぬ鶏の聲かな(実兼)
と詠んで相逢うことの楽しさだけで満足したのである
そうこうするうちに、彼の女は玉の様な男の子を生みおとした。
名を太郎丸とつけ大切に育てた。
女は毎日通ってきては乳を呑ませるのだが、まだいずれの何者ともあかさない。
太郎丸が三オのとき、実兼は我慢が出来なくなって、さきに長光坊が「恋に呪いが含まれているからそれが罪になるのだ。そこに恋と愛との区別が有るわけだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛さねばならぬ」と論されていたのも忘れ、どうしても明かさぬ女に憤り怒ったところ、突然那岐嵐がゴーとたかまり、今まで乳を含ませていた女の姿は消え、太郎丸の懐に次の五首の歌が残されていた。
人たらで一たる人の人なさけ 人たる人の親となるらん(女)
逢いそめしうれしきことのありて又 ならひはつらき別れなりけり
身の上は浦島の子の玉手箱 あけてはさぞな悔しかるらん
君がためかりの契りを惜しまれて 数ならぬ身のあわれなりけり
恋しくば那岐の苔川住む身なり 変わる姿も一目逢ふなる
実兼は太郎丸を抱いて奈義川の淵にかけつけた。
霧は深く山々は鳴動してふと見ると向こうの山を八巻した大蛇の姿が眼にうつり。その顔だけは彼女であったという。
太郎丸が泣き乍ら指さす滝壺の中には、赤黄青白紫の五色の玉が浮かんでいた。
実兼がその五色の玉を拾い上げ、太郎丸に与えたところ泣いていた太郎丸はその玉を抱いて、母の手に抱かれた如く安らかであったという。
大蛇の巻いた山を八巻山と称し、玉は五色の玉と名づけて、菅家代々の名玉となった。
さて太郎丸はこの玉を身につけ成長して、飛行自在の通力叶い、三穂太郎満佐と呼びその名を天下に挙げ、この国にいながら京都洛中の守護、玄番頭の勅任を蒙つたといふ太郎は京都まで三歩で往復したから三歩太郎といはれた。
さて又太郎は成人すると近在の娘、小菅戸といふのに心をよせて日夜通っていたが、恋敵頼光といふ男が太郎の草履の裏に毒針をさしたがもとで熟に病み、非業の死をとげた。
この太郎の死が大変で、変化の正体を現し、五色の息を吹き、豊田庄内近郷四、五里四方、雲霧に閉ざされ、天地は震動して雷鳴の如く、暗いこと三夜に及び、那岐を枕にし、足は豊田の庄まで延び、大岩が散乱して石なきところに大岩が出来、山なきところに小山を作り奇異を生じた地方の口碑につたえる。なお勝北一帯火山灰土に変じたとも言ふ。
彼の黒土は、変化の吐いた黒血と死肉の黒く腐ったものと伝えられ、頼光は微塵にくだけて死んだという。
小菅戸は二人の菩提のため髪を下ろして尼となり、山寺に入り経書を佛の唱名に後世を送ったと言ふ。
今の西原村の内に、小菅戸屋敷又は頼光といふ地名が残っている。
その後里人は太郎の霊を尊敬して、那岐の項上に神殿を築き、奈義大明神と崇めた。
これを勧請して関本に三穂太郎大明神、西原に荒関大明神、広岡に杉大明神、高殿に御崎大明神あり、併せて豊田の庄五箇の神仏(?)といはれている。

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三穂太郎

 爰に美作国豊田の庄に、三穂太郎光佐と云人あり。

其先祖を尋ねるに、前伊豆守菅原秀治郎近衛院の勅勘を蒙り、此国に下り保師と名乗られける。
其子兄弟三人武勇を顕わし勝田郡五ケ庄を押領しけり。
二男治郎長次其子ヲ久常といふ。
其子を実兼といふ。
其子を近藤武者是宗ト云フ。
是宗文武両道にたつし、和歌のみちにもたつし、殊に双なき美男也、頃ハ弘長三年三月十八日菩提寺の観音へ参詣有しが、折しもサクラの盛にて花見の御遊を催しける。
近郷の老若男女へだてなく袖をつらねて並居たりける。
其中に年の頃二十ばかりの女凡人とも思はれぬ。
肌にはしらむく上には重あやを四季のもよふに染なし春もようようあけぼの染霞に匂ふ梅がゑに、初音を知らす鶯茶左右の袖ハ夏来にけらし白妙の卯の花色に、腰のもようは目にはさはやかに見えねども、あきの千種の花紅葉妻恋鹿もかわいらし、裾も浪速のあしの葉に積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に鴛鴦の浮寝のおもひはに思ひ染しよの心かや、いとたわやかな其の姿、腰ハ柳の春風にゆられゆられる風情して、露をふくめる海道(棠)のほころびかかる目元にて、かつらの眉すみほそほそと丹花口びるあざやかに、芙蓉のまなじりいとけだかき誰が袖ふれしかをりにて、心ときめくばかりなり。
近藤武者是宗ハ此姫を見るよりも情の心催して、飛び立つごとく思へども軽々敷言葉もかけがたく、見慮にながめ居たりが、懐中ヨリ短冊を取いだし、
一首の歌に云
春毎に見る花なれど今年より  咲きはじめたる心地こそすれ
と詠じ首を書て姫の側なる桜の枝に結び付さけ、片原なり寺へ行僧に長光坊といへる出家あり、物堅き成人なれば招き寄て、あれなる女を知り及ふやと尋るに、長光坊答て云様ハ、此程折々此寺へ参らるるといへども、何国いかなる人ともいまだ知り申さず、去ながら御用あらバ仰付られ候得といへば、夫ハ又近頃添仕合拙者今日見恋に心のもつれ解やらすさしもつれ、泪の川の渡しもり。と書いて渡し出家に似合ぬ事ながら宜敷はからいくれ、程能調ふ物ならば恩賞をへんとて頼ミ、又短冊に一首の歌を書て、枝高き花の梢も折バおれ及ばぬ恋もなるとこそきく。是を渡しけれバ長光坊頓て姫の元へ行、先刻此短冊を拾い見申所美敷手にて書かたれども。恋の歌内へ出家が持てハよろしからず差上げ申は、御手本に遊ばし候得と何気なく差いたしければ、姫は手に取つくづくと見て申されけるは、足ハ御出家にハ媒頼まれけるかな、か様の物貰ふ身にて非ず差返しければ。長光坊取あへず一首
いい捨る言の葉までハ情あれ 只いたずらにくちはつる身を
と詠じければ、姫は独言の様に申けるハ
心こそ心まよわす心なれ 心にこころ心ゆるすな
と書申ける。長光坊かへり此よしを語りければ又、
恋すれど人の心のとけぬには 結れながらかへる玉づさ
と書て、これを送り見候へと渡しければ、長光坊又姫の元へ行、差出しけれバ此度ハ得と見てまた返しの歌を美敷手にて書ける。
変るともぬし有人ハ觧ましき、結ぶ神のゆるしなければ
と書て渡し、はや日も夕暮になりけれバ何国ともなく帰りぬ。長光坊も返し歌ヲ受取てすごすごとかへりて、近藤武者に渡し、かく語りけれバ是宗大ニ悦ひ此上ハ宜敷頼むと申置、家来引ぐし立帰りけり。扨此後細々なる文を認め、折々此寺へ参るを待て長光坊が取次しける文の奥ニ
わりなしや嬉しきものなぐさまで 又一筆にそふおもいかな
あわれとも人の心のなさけあれな 数ならぬにはよらぬなげきを
又姫のかへし
哀とて人の心にゆるしあれ なかずならねともままならぬ身を
又是宗つかわしける文の奥に
海も浅し山も本をなし我恋を 何によそへて君にこたへん
又送る是宗の文の奥に
くれなひに泪の色のなり行を 幾しを迄も君にとはばや
又姫のかへし
一花に思ひ染めたる紅の 泪の色ハさめもこそすれ
近藤武者是宗ハ此外幾度となく年月を重ねて、よれつもつれつ六ツヶ敷色ニ口説の歌をかき、数限りなく送るといへども、逢べきかへしの筆づさみもなく心つよき返事ばかりにて、引事もたとへ事も情も心も盡果て、貴来る恋にやつれつつ、最早露の命の置くべきかたもなく、文も言葉もかかれぬゆへ集歌にてつかわしける。
する墨も落ちる泪にあらハれて 恋きたにもへもかれぬ
待詫て二とせ過る床の上 猶かわらぬハ泪なりけり
恋しきをいかがわすへきと思へども 身数ならず人はつれなし
胸はふし袖は清める関なれや 煙も波も立たぬ日ぞなし
永久しきは蔓を限りとかきつめて せきあへぬ物は泪なりけり
此歌をかいて遣しければ、姫も打觧たる躰にて返しにはんじ物をおくる。
如此のはんじ物、是宗つくづくと見てモのと書いて四ツあるは、しもの三ヶ月は弓張る月、刃の下に忍ぶとゆふ字なればしもの弓張月に忍ぶとハ二十三日の夜忍来るとの事なり。はんじおふせて思ひの煙むべに消、心のにごりすむうれし嬉しき、急ぎ菩提寺に行、観音のお影ならんと伏拝み、長光坊にも一礼なして、其後恩賞を与へんとせば、還俗して是宗の姫となり長光坊を其儘に、細川長光と名乗らせ武名顕わしたるは此僧の事なりとかや、則関本村長光の屋敷とて地名のみ残れり旧跡有、扨近藤武者是宗は二十三日の夕くれを、誠に千年を待心ちして程なく其夜に成ぬれば、はたして彼の女忍び来り、家来に案内あれバひそかに一間へ伴ひつつ、蜷子ヲ取揃へささのむささのふし間も、肩の情の新枕おふが別れの始めとて、ならひとはあさましき、其の夜の袖はぬれ衣、つらつら思ひし胸晴れて、嬉しきあまりに是宗一首
うれしきもつらきもおなじ泪にて おふ夜の袖ハなおぞかハかぬ
女とりあへず一首
仮初めのしののをささぬ一ふしに 寄かかりきと人に語るな
此時是宗尋ねけるハ、過しころ見染しより年月、文玉づさを通すといへども、何国如何なる人ともいまだしらず、斯情に預る上ハ如何なる人にもせよ苦からず、身の上を語り聞せ候へと問けるに、女申様ハ、わが身の事は儘ならぬ者なれば、有様物語り候へば、君の御為に宜しからず、去りながら深き御情に預る上ハ、つらつら何の仇には存じ申さず、是れよりハ此館へ忍び申すと、つきぬ言の内に寄るもふけ渡りて、鳥のこへしけば是宗一首の歌
契り来て逢はる夜半の程もなく あわれも知らぬ鳥のこへかな
女の読みけるハ
己が音につらき別れハ有とだに 思ひも知らで鳥の明らん
と読みてその夜ハ別れぬ。それより幾度なく忍び通い月日も重なりけるが、有夜女の物語りに、仮の契りも重ねて、懐 胎の身となりしとおぼへ候よし語りければ、近藤武者是宗悦びて、さもあらばいまよりは、わが館の妻と定めん、帰る事なく昼夜ともに此家に居なんとすすむれバ、我身事いわれ有身の悲しさ、さ様には成難し、しかし御子は産て後養育して成長なし候ハんと申帰りぬ。日行月来りて、すこやかなる男子生まれければ、名を太郎丸とつける。その後三才に成迄此母七日めの夜なくなく太郎丸を抱いて、是宗が館へかよいける。ある夜其子に添て残し置かへり遺す処の歌
逢初し嬉しき事の有りてまた ならひつらき別れ成けり
人ならず人たる人に人たらで 人たる人の親もやいうらん
身の上は浦島が子の玉手箱 明ていさそ反悔しかるらん
君が為かりの契りも不志明て 日影の花も顕れけり
恋しくバなぎの谷川住とみよ かわる姿も人目をゝなる
扨是宗ハ此歌を見て、扨こそ扨こそ年月馴し夫婦の中、よるの寝覚の睦言も、名所語らぬ一ッのふしぎ、斯事ハ今更に驚くべきにあらねども、今別れてとは残念や、百千万の心をこめし此歌ハ皆深き意あり、しりヘの一首 恋しくば名木の谷川住むとハ、奈義川に住物ならん。ここに大なるなん所あり。
此所へ来りなバ逢んとの事なりと案またしても、いかなる変化のものにもせょ、此子が為にも親子の別れ、我も名残を惜しまんと、かいかい敷も身こしらへ我が子を脊におひながら、只一人忍び出て奈義の裾野をたどりつつ、大成さして登り見れ其子細なかりけれバ、太郎丸が母恋し、太郎丸が母恋しと、そこよここよとかけまわり、大聲上て呼び叫ぶ。
片原なる大石に腰をかけて、しはし休らひ居る内に、不思議なるかな俄に秋雰立込て、いと物凄くさわがしく、やゝ有りてはれ行雰の下よりも、きのふの姿引替て頭は其儘ここに居て大蛇の形あらわれ、畝の山を八廻り、物すさましきその其の有りさま

関本村削弓之間に有りける八巻の左の左并ニ蛇淵のいわれ
附「大なるが野」
時に是宗言けるハ、扨々恐敷形を見せる物かな、今一度元の姿見せたまへと泪を流し申しける。
彼の大蛇答て曰、かかる恥敷身にして、仮にも君に情を受けたる事、定めて悪しとや思召さん、是が此の世の御暇乞、さらばさらばと名残おしやとばかりにて、名木川の滝壷へ飛入失にけり。
かへせ戻せと呼はれど、更に答もなかりけり。悲歎の涙に暮たりしが、我子共に此儘に、こがれしにせんよりハ、滝壷に身を沈めて逢て後溺死てなり共、せめてのはらいせせんものと、身の毛の逆立我子ヲ小脇にかいはさみ、なんなく彼滝の本へうかがい寄、水底白眠で居たりける。共時不思議や滝つぼの水中より青黄赤白紫の五ッの色のあざやかなる一ッの玉、逆巻水の勢に浮かび出たり。
夫と見るより太郎丸、あれよあれよと手招きす、ささゑさせんと取上渡せば夜の別れの其時より、是迄見ざりし笑かを悦ふ躰を感じ入。
扨ハ母が心をこめし此玉ハ、我子へたまもの賜りしか、此上恋ひ慕ふは未練の迷ひと漸々に、思ひ切飛が如くニ我が家をさして帰りけり。
蛇淵のいはれ此事なり。末の世の今に至りても、蛇淵に雨こい祈りけれバ三日の内に雨ふらずという事なし。又、能畝の山を大蛇八廻り巻たるいはれ有に依テ、共後此山を八巻とも言伝ふるなり。又太郎丸が授かりし玉、五ッの光を顕すヲ以テ五光の玉と号く。
則今菅家に代々傳りし名玉なり、太郎丸常に肌身を離さずして成長して、凡人ならず、飛行自在の通力叶ひ、妖術に等敷三穂太郎光佐とて、名を満天に輝かし、其身此国に居ながら京都禁中の守護をし、玄番頭の勅任を蒙り、三歩に行通ふに依て、三歩太郎とも申伝ふ、豊田修理進の娘を妻として、男子七人有り。
依テ菅家七流の祖といふなり。
嫡男有元太郎佐高、二男福元彦治部(郎?)佐長、三男原田彦三郎佐秀、四男広戸主馬之助近長、五男弓削蔵人頼光、六男垪加六郎定宗、七男菅田七郎年信、何れも秀でたる人々にて、武勇を顕し、威を国中に振ひ、皆それぞれ取領を得たり。
光佐ハ美作守りに任して、名木山の絶預近き所に城を築き、其屋敷跡有、東西二十五間、南北拾五間、西北東に堀有。
西の方に二十三間の馬場有、南の方に書院の跡有、両方長サ入間横六間里石有、此三穂太郎ハ齢かたぶく頃迄も、不老不死容体にして、智仁勇の武威有て、七珍万宝を集めて其身ヲ全して、いと栄花に暮らし肩を並る人もあらざりしが、爰に庄内西原村といふ所に、一族光奥と申人あり、光奥の娘に小菅戸姫として、容体古今無双の美女有ける。
三穂太郎栄耀のあまり、彼の女の元へ折々忍び通ける、又同じ村に頼光といふ人あり。
是も同く彼の女恋心を寄、忍び通ひける内、双方ねたみの心でき、有時三穂太郎が忍び入りしを知って、はき来りしぞうりに針をさし置ければ、光佐斯共知らずかへりさに、彼の針を足の裏に踏たて、此痛ミ頻りにして  種々療治を尽くすといえ共身体大きに悩乱して、変化三体を顕し、五色の息を吹出し、庄内近郷迄四五里四方雲霞満たる如くに成りけり。
うなりける聲震動雷に異ならず、暗き事三日三夜にして名義山を枕として其身ハ豊田の庄内に倒れ臥す。
此時所々に大岩崩れ飛去り、石なき所に大石居り、山なき所に小山でき、久保なき所に久保できて、跡岩跡田跡久保跡石杯いい伝る所数をしらず程ありける。
三穂太郎光佐倒伏し、其死肉悉く腐りて墨となりぬ。
何国にても黒ぼこという土ありといえ共、此庄内に限り誠に黒き事摺墨の如くなり色の浅深あり又頼光其時微塵に砕て死にたりけり。
小菅戸姫ハ其後二人の菩提を弔らハんと尼と成山寺を建て、朝夕経念を唱へて住むゆへに、西原村に小菅戸屋敷あり、又頼光光奥様といへる地名今に残れり。
其後貴賎共に三穂太郎の亡霊を尊敬して、名義山細尾の絶頂に神殿を建立して、奈義大明神と敬ひ奉りけり。
後世に升形といふハ此宮地なり。是を勧請して関本村に、三穂大明神、又西原村に荒関大明神、沢村広岡村に杉大明神、高殿に御崎大明神、豊田の庄五ヶ村の神殿是なり、又三穂の字説多し山褒三保三歩三宝三穂杯申、正慶二年四月三日に美作国三穂太郎光佐の子孫其外一族三百餘騎、官軍に属して京都四条猪熊迄攻入、武田兵庫之助糟谷高橋が一千余騎の勢と時移る迄相戦ひて、有元四郎佐廣、同五郎佐光惣兵衛佐吉、福光彦治部佐長、原田彦三郎佐秀、広戸掃部之助家奥、弓削蔵人頼元、垪和六郎定宗、菅田七郎佐李、皆木佐京大夫長保、豊田修理之助為次、植月彦五郎重佐、梶並二郎三郎頼俊、大町主馬之助重遠、小坂六郎衛門保友、戸国八三五郎教保、森安三郎吉光、野々上兵衛盛行、多坂孫三郎久保、右手治郎通奥、江見四郎元盛、粟井三太夫盛次、松岡治部之助種孫、揚浅五郎成安、須江小五郎行重、和田又三郎爲元とか、菅原家の一族二十四名、二十六騎の人と能敵に馳合ニし皆々差遣て討死ヲぞしたりけり。前代未聞の忠戦とかんぜぬ人こそなかりけり。
終二官軍勝利を得たまひて京都六波羅伸時尊時、鎌倉の執権相模守高時、長門の探題、其外諸国一家北条従類脊属残らず折亡したまひて、公家一流の御代となりぬれば、戦功の人々の兄弟子孫に至る迄皆夫々に恩賞ヲ蒙りけり。
美作国菅家の来歴依テ斯之通り末世に書残しけり。
 三穂太郎記終 此本何方へ御取替候共 又かし無用

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さんぶたろう

 菅原道真の子孫を名乗る男が、菩提寺で女と出会い、太郎丸という名の男児をもうけた。

※注釈1-1b:浄土宗高貴山菩提寺→那岐山の中腹にあり、行基によって開かれたと伝えられる。『菩提寺古今録』によると延暦24(805)年まで法相宗、承安4(1173)年まで天台宗、寛文5(1665)年まで浄土宗、明治6(1873)年までは真言宗であったという。「法然上人行状絵図」や「元亨釈書」などによれば、浄土宗の開祖法然(1133-1212)は13歳で美作国を出て比叡山にのぼるまで、伯父にあたるこの寺の院主観覚の元にあった。奈義町高円地区。(注釈ここまで)

 

女は太郎に乳をやるときだけは産屋をのぞかぬよう男に約束させたが、我慢しきれなくなった男は、とうとう産屋を覗いてしまった。
そこにはとぐろを巻いて太郎に乳をやる大蛇が…女は蛇精だったのである。
正体を見破られた大蛇は去り際、山を八巻きして約束を破った男への恨みをあらわした。以後、大蛇が消えた山=能畝山〔とかりやま〕は、八(鉢)巻山と呼ばれるようになった。
※注釈1-1c:八(鉢)巻山→さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。那岐山の支峰については位置のはっきりしないものも多いが、菩提寺の南西付近を指すといわれている。(注釈1-1cここまで)

男は太郎を連れて山中をさまよい、やがて淵のほとりで大蛇に再会した。
大蛇は五色に光る珠を差し出し、太郎が乳をほしがったらこれをしゃぶらせるように伝えると、淵の中へ消えていった。大蛇が消えた淵は蛇淵と呼ばれるようになった。
※注釈1-1d:蛇淵→さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。(注釈1-1dここまで)

その後、珠の霊力でぐんぐん成長し、雲も突き抜けるほどの巨人になった太郎は、仙術を自在に操り、三歩で京まで行き交い、奈義の地にいながら禁裏の護衛を勤めたので「三歩太郎」と呼ばれた。
この地方きっての勢力者になった太郎は豊田姫との間に七人の男児をもうけたが、一方で播州の佐用姫の元にも通っていた。
ある時、豊田姫に嫉妬した佐用姫が草履に仕込んだ針で足の裏に傷を負った太郎は、それが元で死んでしまった。
※注釈1-1e:精霊である大蛇の血をひくたろうは金気に弱かったと伝えられる。また草履に針を仕込んだのは、佐用姫に横恋慕した頼光という男であったともいわれている。(注釈1-1eここまで)

大地に倒れ伏したなきがらのうち、頭は関本の里、胴体は西原の里、かいな(腕と肩)は因幡の土師、右手は梶並の里へとどまった。
また血は川に、肉は黒ぼこという肥沃な黒土になり、息吹は北大風をよんだ。
地元の人間は、那岐山から吹き下ろす大風を「さんぶたろうが吹く」と呼んで恐れ敬ったという。
※注釈1-1f:さんぶたろうに関するさまざまな伝承
前記のほかにも、岡山県奈義町、勝田郡、美作地方東北部一帯には、さんぶたろうに関する伝承地が数多く残っている。(『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)から引用、または参考にした。)
A.地名に関する伝承
(1)頼光(よりみつ):さんぶたろうの恋敵である頼光の在所。奈義町西原地区。
(2)豊田屋敷:奈義町西原地区、柿地区へ越す古道の谷頭地。さんぶたろうの妻小菅戸のいた豊田氏の住居地という。
(3)さんぶたろう屋敷:那岐山頂、あるいは是宗川上流、是宗城(細尾城)の北方人形石より戌亥の方角の山頂にあったといわれる。
B.さんぶたろうの死に関する伝承
(1)さんぶたろうが吹く:かつて北風のつよく吹く日には「さんぶたろうが吹き出した」と言った。彼の死にあたり吐き出した息吹という意味。
(2)くろぼこ:那岐山麓一帯の肥沃な黒土を「くろぼこ」と呼ぶ。さんぶたろうが死んだ後、その肉や血がくさってできたものといわれる。
(3)「じやがたに」または「ちあらいのたに」:さんぶたろうの死んだ時、那岐山の一角が崩れてできたといわれる。また一説には鎌倉山城の北方のこの地で戦いがあり、その血をあらったために「血洗いの谷」というともいう。
(4)山麓に点在する巨石群:さんぶたろうが死んだ時那岐山が崩れて飛び散ったものといわれる。
(5)さんぶたろうの四方に飛び散った亡骸を祀ったところ
イ.三穂神社=三穂大明神。さんぶたろうの頭部を祀る。別名「こうべさま」。奈義町関本地区。
ロ.杉神社=荒関大明神。さんぶたろうのあら(胴体)を祀る。別名「あらせきさま」。奈義町西原地区。
ハ.河野神社=さんぶたろうの肩の部分を祀る。そのため肩や手の病気にご利益があるという。別名「若一王子権現=にゃくいちさま」。鳥取県八頭郡智頭町土師。
ニ.右手大明神=さんぶたろうの右腕を祀る。勝田町梶並(現美作市)。ここにいうさんぶたろうは、源氏の落ち武者近藤武者是宗の子三穂太郎勝正をさす。
C.さんぶたろうの行動に関する伝承
(1)さんぶたろうのせっちん岩:是宗の奥の谷間に岩がかたまっており、さんぶたろうが谷の稜線をまたいで排便した跡といわれる。また那岐山頂三穂太郎屋敷から巽の方角に井戸、南の方に長さ八間横六間の厠と呼ばれる黒石があったともいわれる。
(2)さんぽたろうの名の由来:さんぶたろうは三歩で都まで行ったので三歩太郎と呼ばれたという。
(3)さんぶたろうは、那岐山頂に腰を下ろして、瀬戸内海で足を洗った。
(4)さんぶたろうは、那岐山に腰を下ろして因幡の賀露の浜で足を洗った。
(5)さんぶたろうは、那岐山と備前の八塔山(和気郡吉永町〔現備前市〕)をひとまたぎした。
(6)さんぶたろうが那岐山をまたいだとき、ふぐり(陰のう)がふれて山頂の一部がへこんだ。
(7)中島西津山渡瀬の北方の淵:さんぶたろうが那岐山と八頭寺山をひとまたぎした時、金玉がこすれてできたといわれ、現在は河川改修のためなくなった。奈義町中島西地区。
(8)きんたま池:現在は約十坪ほどの小池であるが、湧水があるため、早魅時にも決してかれることがないといい伝えられている。さんぶたろうの金玉を押しつけた跡が池になったといわれる。この池より南方にわたり、かつては窪地となり、沼澤乃至湿地帯であったようである。奈義町滝本地区八軒屋。
(9)津山市瓜生原:さんぶたろうの金玉によってできたといい、山の斜面に禿地があり「きんすり」という。
(10)小鞠山:さんぶたろうが都に上る時、草履より落ちた土塊が転がってこの山になったといわれている。
(11)さんぶたろうの足跡に関するもの:
イ.さんぶたろうの第1歩=滝山の四方に樹木のあまり生えぬところあり、「さんぶたろうの第1歩」であるといわれる。
ロ.さんぶたろうの第2歩目=勝央町植月地区長良池南方の巨石に足跡の形の凹みがあり、これが「さんぶたろうの第2歩目」の跡といわれる。
ハ.さんぶたろうの足跡=現在の那美池あたりにさんぶたろうの足跡と呼ばれる20間四方の足形地があったといわれている。奈義町宮内地区道林坊。
ニ.さんぶたろうの足跡=さんぶたろうの足跡といわれる八間四方の貯め池があり、夏冬とも水が涸れなかったという。奈義町柿地区逧谷。
ホ.跡田=西原の南、柿に接する谷間にあり、さんぶたろうが都に上る時の第1歩の足跡といわれ五畝ばかり足形様をしていたが、現在は整理されて原形をとどめない。奈義町西原地区。
ヘ.さんぶたろうの足跡田=勝北町安井地区(現津山市)。
ト.さんぶたろうの足形石=綾部村熊井谷の内西畑に在り、さんぶたろうの古跡といわれる。
チ.さんぶたろうの足形=昔、荒内西新地の東に窪地があり、さんぶたろうの足形と呼ばれていた。現在は水路の工事などにより原形をとどめない。
D.さんぶたろうの食事に関する伝承
(1)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:西原字細田の川の中の巨石。高さ幅とも2メートル超。奈義町西原地区細田。
(2)さんぶたろうの飯行李に入っていた石:勝北町こえがたわの奥津川寄りに牛よりやや大きいくらいの石がある。
(3)さんぶたろうのおかゆに入っていた石:ひと抱え以上もある表面が滑らかな石で、現在は某家の墓の台座になっている。奈義町滝本地区長谷。
(4)蛇淵の南方、川縁の石:さんぶたろうがいりこを食べる時、碗を吹いたら飛び出した石といわれる。
(5)さんぶたろうのお櫃石:人の身長位の高さがあり、飯をすくう杓子の跡があった。近藤村(現在の奈義町滝本地区)の久保田にあったが、那岐池構築のとき石垣用に砕石された。
(6)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:那岐山大神岩の下方にある黒石。
(7)釜田:昔、盗賊がさんぶたろうの釜を盗んだところ、にわかに大雨が降り出したため持ち帰ることができず、その場に置き捨てていった。その場所は釜田とよばれるようになり、捨てていった釜が今も土の中に眠っているといわれる。
(8)右手奥の坂の石:さんぶたろうが立石に腰をかけ昼飯を食べていた時、弁当の中にあった小石。箸ではさみ投げ捨てたところ、向かい側の奥の坂に落ち、地面に食い込んで止まったものといわれる。(現美作市)
(9)曾井の大岩:さんぶたろうのいりこの中に入っていた石といわれる。勝央町曾井地区。
E.その他の伝承
(1)双子山:さんぶたろうが力試しに二つの山をかついだところ、もっこの緒が切れてできた山といわれる。
(2)十王堂の十王像:きわめて古い時代のものといわれ、土の中から頭を出しているのはほんの一部分に過ぎず、実際の目方・大きさははかりかねるほどといわれる。もともとさんぶたろうが背負っていたものを落としたことに気付かず、そのまま通り過ぎてしまったため、以来ここにあるという。また別の言い伝えではある人が、川の中に光るものがあるのを夢に見、それが元で発見されここに安置されたともいわれている。勝央町岡地区。
(3)疣(いぼ)池の岩:岩に空いた孔から水が湧き出て池を成しているといわれる。さんぶたろうの杖の跡といわれ、ここに精米を入れ、その水でイボを洗うとたちまちイボが落ちるといわれている。勝田町真加部地区(現美作市)。
また岩は、余野と真加部の境界、梶並の水中にあって直径1尺ほどの丸い穴(砂などで深さはわからないという)があるといい、疣池様の石を借りてきてイボをさすり、治ったら石3個をお返しするとよいといわれる。
(4)杖の跡石:国ヶ原にあり、さんぶたろうの杖の跡という。津山市綾部地区。
(5)しおの下さま:さんぶたろうが牛に乗ってふもとから担ぎあげたと伝えられる。高さ十メートルぐらいでふもとの石には牛の足形が残っている。
(6)さんぶたろうの飛礫石:和田村の境にある直径八尺ほどの大岩。
(7)跡岩:連光寺の奥にあり、長さ8尺、幅7尺、厚さ五尺の黒岩。人の足跡(8~9才ぐらいの童子の足跡のよう)と馬の足形があり、さんぶたろうが那岐山から後ろ向きに投げたためこの地にとどまったという。
(8)さんぶたろうのちんぽ石:広岡の大谷池の北方、あたご様の上方にあり、全高約一メートル超の石。男根に似ている。
(9)蛇淵:さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。
(10)八(鉢)巻山:さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。(注釈1-1fここまで)
(1-2節ここまで/1-3節につづく)

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さんぶたろう

那岐山登山口の蛇淵渓谷は、原生林に囲まれて轟を響かせています。落差20mの3段の滝は、真夏でも涼しく神秘的な姿を見せてくれます。地元に伝わる巨人伝説「三穂太郎(さんぶたろう)」の母である大蛇がこの淵の主であったとされています。


民話さんぶたろう


昔々、この地を治める領主が菩提寺へ向かう山中、絶世の美女と出会います。


やがて二人は恋におち、夫婦になると男の子が生まれ「太郎」と名付けます。


しかし、女房は「乳を与えているところを決して覗いてはいけません」と言い、奥の納戸を締め切ると乳を与えるのでした。




やがて我慢しかねた領主はとうとう納戸を覗くとそこには部屋いっぱいにトグロを巻いた大蛇が太郎を抱き、乳を与えていたのです。


正体を見られた大蛇は姿を消し、残された太郎は泣くばかりでなにも口にしません。


困り果てた領主は太郎を抱き、女と出あった山中を彷徨っていると、大きな滝壺から太郎を呼ぶ声がします。


滝壺から現れた母の大蛇は太郎に「五色の玉」を渡すと再び現れることはなかったそうです。


大蛇にもらった玉をなめて太郎はどんどん育っていき、やがて、家よりも村一番の大木よりも、那岐山よりも大きくなり、とうとう雲をも突き抜ける大男になりました。


大男の太郎は京の都まで三歩で歩き、やがて「三歩太郎」が訛り「さんぶたろう」と呼ばれるようになりました。


やがて、父の後を継ぎ領主となったさんぶたろうの嫁になりたいという2人の女性が現れます。


サヨ姫とトヨタ姫です。


美しいサヨと、心根の優しいトヨタにさんぶたろうは逡巡し、トヨタ姫を妻に選びました。


そして、選ばれなかったサヨ姫は嫉妬し、さんぶたろうの草履に毒針を仕掛けるのでした。


「蛇は金気(かなけ)に弱い」と云われ、大蛇と人の間に産まれたさんぶたろうは小さな毒針のためにたちまち悩乱し五体は四散し死んでしまいました。


今際の喘ぎは“北大風”現在の「広戸風」になり四散した五体の内、頭は奈義町関本の「三穂神社」へ“こうべさま”として、右手は美作市右手(うて)三社大明神は、かいな(腕や肩)は鳥取県智頭町の「河野神社」へ“にゃくいちさま”として、胴体は奈義町西原「杉神社」へ“あらせきさま”として足は奈義町高円の「諾神社」(なぎじんじゃ)へそれぞれ今も祀られています。


さんぶたろうの足跡はため池となり今も各地に残り、飯に入っていたと云われる巨石や、杖の跡など多くの史跡が今も語り継がれています。


また、さんぶたろうは戦国時代まで美作地域を広く支配した「美作菅家」の祖と云われる菅原満佐(すがはらみつすけ)がモデルと云われ、頭を祀る「三穂神社」の境内には菅家の末裔の方によって建立された銅像があるなど、現在も慕われ続けています。


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2023年11月29日水曜日

秦 酒公

 秦 酒公


5世紀後半頃の豪族。浦東君の子。渡来系氏族の廷臣と伝えられている。

 『日本書紀』巻第十四によれば、雄略天皇が木工の闘鶏御田に命じて楼閣を造らせた。御田は楼に登って、四方に飛ぶように疾走した。これを見ていた伊勢の采女がその速さに驚き 、饌をひっくりかえしてしまった。天皇はこれを見て、御田がその采女を犯したのだと疑い、物部の手に渡して処刑しようとしたとき、酒公が琴を弾いて歌を歌い、御田の無実を天皇に悟らしめた。

 また、秦の民が分散して臣・連などの姓を持つ諸氏のもとに置かれ、各々の一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いて、秦造酒は天皇に訴えた。天皇はこれを集めて酒公に賜った。酒公はこの百八十種勝を率いて庸,調の絹や縑を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜ったという話がある。この話は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』にもみえ、『新撰姓氏録』には、さらに大蔵の長官になったと伝えられている。



秦 河勝

河勝は聖徳太子の儕輩(同志)として国造りに大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的人物であったとされる。富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。

 『上宮聖徳太子傳補闕記』によると、 用明天皇2年(587年)の丁未の乱の際は、軍を率いて聖徳太子を守護しつつ、聖徳太子に命じられて仏像とするための白膠木を用意したという。迹見赤檮が榎の木から射落した物部守屋の首を斬ったのも秦河勝であるという。そして乱後に冠位十二階の大仁に叙された。なお、河勝の丁未の乱参戦については、『日本書紀』にそのような記述が見られず、太子と河勝の関係を踏まえた伝承と思われる。

 また、聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の楓野村(=現在の葛野)の蜂丘の南に宮を建て、その宮を河勝が一族を率い敬うことを怠らなかったので小徳に叙され、また宮を賜ったという。後に新羅の仏像を賜った際には宮を寺とし、水田數十町並びに「山野の地」等を施入した。これが広隆寺である。 一方『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に崩御した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

 後世の書物において河勝が授けられたとされる小徳(大花上)は、大夫格の代表者に授けられた冠位であって、その格ではない河勝が小徳になったというのは後世の秦氏の誇張である。

 また、名前に関する逸話が残る。初瀬川氾濫により三輪大神の社前に流れ着いた童子を見た欽明天皇は、以前の夢で「吾は秦の始皇帝の再誕なり、縁有りてこの国に生まれたり」と神童が現れていたことから、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召した。後に帝は始皇帝の夢に因んで童子に「秦」の姓を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされる。


秦 広国

 秦河勝は丁未の乱(587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功を立て、信濃国に与えられた領地に子の広国を派遣した。


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赤沼大膳

 一 武州三ツ木城主石井氏家臣 桶川市川田谷六戸。三ツ木城主石井丹後守あり、西南の隅にある家を家老赤沼大膳屋敷と称す。

二 諏訪氏家臣 諏訪郡赤沼村(諏訪市四賀字赤沼一戸存す)より起こる。諏訪上宮工事在家諸役書上に「定納赤沼四郎兵衛尉」

三 高島藩家臣 前項赤沼村より起こる。高島藩譜に「平姓千葉流。赤沼兵部豊長(天正年中、諏訪頼忠に仕へ百石、横内郷住、のち赤沼郷へ移る。頼満に仕へ百八十石、慶長十年死す)―七郎左衛門豊隆(寛文十一年死す)―源八郎四兵衛豊重―七郎左衛門豊良」。


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佐久間勝之


佐久間勝之

天正10年(1582年)、信濃国高遠城攻めに初陣し功名をあげた。はじめ叔父・柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り婿養子となった。天正12年(1584年)の末森城の戦いなどに活躍するが、天正13年(1585年)成政が羽柴秀吉に降伏すると、妻を離縁し、兄・安政(のちの信濃飯山藩主)と共に関東の後北条氏に仕えた。しかし5年後、豊臣氏によって北条氏が滅ぼされたため、しばらく潜伏していたが、後に遠縁にあたる奥山盛昭を通じて秀吉に召し出され、佐久間姓に復した。

 以後、兄とともに蒲生氏郷に仕え、手ノ子の城を預かった。『佐久間軍記』によれば、葛西大崎一揆の鎮圧で大いに功績を挙げ、その最中に伊達政宗が氏郷を酒席に招き暗殺しようとしたとき、これを察知した勝之は氏郷を逃がしたといわれている。氏郷死後は秀吉より信濃国長沼城を賜った。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五奉行が徳川家康に伺いを立て、その結果近江国山路に3,000石を与えられた。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。慶長12年(1607年)江戸城内に移転。その際に常陸国北条3,000石を加増され、合計1万石を領し大名となった。

 慶長20年(1615年)大坂夏の陣では豊臣方の将・竹田永翁を討ち取る手柄を挙げたといい、その戦功により信濃国川中島と近江国高嶋郡の内に加増され、信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった。

 上野東照宮にあるお化け灯籠(高さ6.06m)は、勝之が寛永8年(1631年)に奉納したものである。同じく京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯籠も勝之の奉納で、これらを合わせて「日本三大灯籠」と呼ぶ。

 寛永11年(1634年)、駿府城番を命ぜられたが、同年67歳で死去。墓所は府中磨屋町顕光院。菩提寺である滋賀県高島市の幡岳寺の過去帳には諱が勝正となっている。位牌も現存する。 

佐久間勝年

 父・勝之が後北条氏に仕えた時代に、嫡男として相模国小田原で生まれた。徳川秀忠に従い、両大坂の陣に出陣。しかし父より先に没したため、家督は弟の佐久間勝友が相続した。墓所は近江国高島郡中之庄村の幡岳寺。 


佐久間勝友

兄の勝年が家督相続前に死去したため嫡子となる。寛永12年(1635年)、父・勝之の死去により20歳で長沼藩1万8000石の家督を相続した。このとき兄の遺児・勝盛に5000石を分知した。

 勝友の藩主在任中は、寛永13年(1636年)江戸城外堀、同16年(1639年)西の丸普請などの課役負担や、同18年(1641年)江戸藩邸焼失と再建、同19年(1642年)参勤交代の義務化など多難であった。

 その間、領内では父・勝之の方針を継いで新田開発を推進し、信濃国領内最大の用水池田子池(長野市)を整備して水利権を定めたほか、飯縄山東麓の多くの村々が勝友の代までに立村したと考えられる。ちなみに、勝友当時の長沼藩佐久間家の江戸藩邸は、父勝之以来の愛宕下の上屋敷のほかに、西久保に下屋敷があった。

 寛永19年(1642年)、江戸藩邸において27歳で死去した。跡を長男の勝豊が継いだ。墓所は二本榎広岳院。子孫が幕末に安置した位牌が同寺に現存する。

佐久間勝豊

寛永19年(1642年)閏9月1日、父の死去により8歳で長沼藩主の家督を相続した。このとき弟の勝興に3000石を分知したため、以後長沼藩は1万石となった。勝豊の藩主継承にあたり、所領のうちで祖父・勝之以来着々と開発を進めてきた飯縄山東麓の新田村々が幕府直轄領に組み替えられた。これは山野・水源の資源をめぐる平坦部の里方村々との軋轢を生じ、寛文7年(1667年)から4年間にわたる大規模な山論が争われることになった。延宝6~8年(1678~80年)には領内検地を実施。表高1万石に加えて新たに3,070石の増高を打ち出したという。

 正保4年(1647年)6月2日、地震によって破損した江戸城石塁の普請の課役を負担。延宝9年(1681年)将軍・徳川家綱死去後には寛永寺の家綱霊廟前に石灯籠を奉納した。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下備中守に任官、後に安房守に改めた。

 人物評としては、延宝3年(1675年)39歳当時の「文武を学ばざれども才智発明にして弁より仁道に叶へり(中略)所行悪き事なし(中略)少々病気たる故、世間の勤めを怠る、樹景の好み養生とすると云へり」という『武家勧懲記』の記述がある。

 貞享2年(1685年)江戸で死去。51歳。養子の勝親が跡を継いだ。


佐久間勝親

 秋月種信の5男で長沼藩主・佐久間勝豊の婿養子となる。貞享2年(1685年)、勝豊の死去により17歳で長沼藩1万石の家督を相続した。元禄元年(1688年)、20歳のとき5代将軍・徳川綱吉より側小姓を命ぜられるも、病と称して辞退した。これが仮病であったことが幕府に知られたため、不敬であるとして改易され、身柄は二本松藩主・丹羽長次の預かりとなった。元禄4年(1691年)、23歳で死去した。滋賀県高島市の幡岳寺と福島県二本松市の龍泉寺に位牌が現存している。 


佐久間勝興

寛永19年(1642年)閏9月1日、兄・勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍・徳川家光に拝謁。所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村に陣屋を置き領政を行なったため赤沼知行所の初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門,中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には長沼知行所(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩,長沼知行所,赤沼知行所,幕府直轄領の四者間で所領の組替えが実施された。

 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。 墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。 


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赤沼 金三郎

 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日慶応元年5月30日) - 1900年明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人[1]。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉従七位勲六等文学士

信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。

1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた[1]。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた[1]

1880年(明治13年)頃、高島小学校で常助教、後に授業生として男女の生徒を教えた[1]。この頃チャールズ・ノーセンドデビッド・パーキンス・ページ英語版等の教育書に影響を受け、教育の道に進むことを決意した[1]長野県師範学校を志望したが、二次試験に落第した[1]

1881年(明治14年)、諏訪郡神戸小学校に転職し、塩原叢竹に漢学を学んだ[1]。『自由燈』の影響で政治学に興味を持ち、1882年(明治15年)、東京専門学校創立に当たって上京し、使丁となることを懇願したが、断られて帰郷した[1]

1883年(明治16年)、東京大学古典科で官費生補欠募集があったため、再び上京し、漢書部に合格した[1]。在学中、私塾でドイツ語を学んだが、上達せず悶々としていたところ、1884年(明治17年)9月、司法省正則法学校の募集があったため、フランス語を学ぶため転学を決意し、官費生首席として合格した[1]

1885年(明治18年)9月、正則学校は大学に合併され、その後再編により大学予備門、第一高等中学校生徒となった[1]。1886年(明治19年)3月、官費が廃止され、神田区本郷区辺の下宿屋に移った[1]。1888年(明治21年)7月、予科を卒業して法科に進み、1889年(明治22年)7月、文科に転じた[1]

1890年(明治23年)3月、再び寄宿舎に入り、学生自治を主導、端艇部応援歌『花は桜木人は武士』を作詞し、1891年(明治24年)5月には諏訪地方出身者を対象とした学生寮「長善館」(江戸時代の諏訪藩校と同名)を建設した[1]。1891年(明治24年)7月、高等中学校を卒業し、9月文科大学哲学科に進んだ[1]

1891年(明治24年)12月、近衛師団に志願し、1892年(明治25年)11月、二等軍曹となり、一旦大学に戻った後、1893年(明治26年)8月見習士官を経て、12月に予備陸軍歩兵少尉となり、正八位に叙された[1]

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発した時は高崎市歩兵第15連隊にあり、10月宇品を出港、旅順口の戦いに合流し、金州、徐家山占領に参加し、蓋平、大平山、西七里溝庄、営口田庄台中国語版等に転戦した[1]

終戦後は遼東に留まり、民政庁で教育事務に携わることを希望し、1895年(明治28年)5月征清大総督府より陸軍歩兵中尉に命じられたが、三国干渉により返還が決まり、帰国して大学に復帰した[1]。1895年(明治28年)10月、戦功により勲六等単光旭日章を受章し、1896年(明治29年)3月、従七位に叙された[1]

1897年(明治30年)7月、漢文学科を卒業し、東京大学舎監、山口高等中学校教授等の誘いを断って大学院に進み、将来日本の徳育を探求するため、東西倫理学の比較研究に着手した[1]。在学中、第一高等学校千葉県尋常中学校日本赤十字社千葉県支部看護婦養成所等で倫理、修身を教え、また1897年(明治30年)9月には京華中学校創設に当たり倫理科を担当した[1]

また、文部省において、1899年(明治32年)10月、第13回文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験委員、1900年(明治33年)12月、第一高等学校生徒取締起草委員、1901年(明治34年)2月、教科細目及授業法取調委員を歴任した[1]

1900年(明治33年)春頃から肺を患い、1901年(明治34年)7月、平塚町杏雲堂医院に入院し、そのまま快復せず、11月5日に死去した[1]本駒込吉祥寺で葬式があり、諏訪頼岳寺に帰葬された[1]。法名は天心院殿枕戟周夢清居士[1]

死後、高橋作衛によって遺稿が整理され、1902年(明治35年)11月、『天心遺響』『天心遺稿』『哲学論叢』が出版された[2]

弟徳郎は理学士[1]。また、妻三輪氏との間に一男哲を設けた[1]