『梁塵秘抄』(平安末期成立)に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように、中世以降になると諏訪社の社家の武士化とともに諏訪明神は軍神として信仰されるようになり、その武功を語る説話が広まった。
『源平盛衰記』『諏方大明神画詞』等によると、天照大神に遣わされた諏訪明神と住吉明神は神功皇后の三韓征伐に協力した[93]。諏訪明神が坂上田村麻呂による蝦夷征討(安倍高丸追討)に参加したという伝承も、『画詞』のほか『神道集』や『信重解状』等に見られ、諏訪社の御射山祭または流鏑馬の由来として語られている[94][95][96][97]。
更に、源平合戦の際に大祝がどちらに味方するか考えていたところ、諏訪明神が夢で手にしていた梶の葉の軍配を白旗(源氏)のある方向へと振り下ろしたため、諏訪の武士集団が源頼朝に加勢したという伝承もあり、諏訪上社・下社の大祝家が用いる「梶の葉」の家紋の起源譚となっている。この内乱に功を立てた諏訪武士団は頼朝から取り立てられるようになり、諏訪明神も鎌倉幕府や武家衆から篤く崇敬された[98]。
元寇の際には神風を起こしたとする伝承、または鎌倉後期に起こった安藤氏の乱の際には龍に乗って反乱を鎮定した伝承もある[99]。
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