佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。
佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。
そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。
http://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/np5.htm
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