伊達・田村同盟
「蘆名盛隆(盛氏の養子)は実父二階堂盛義と提携して、天正五[1577]年夏安積郡に兵を出し、また岩城常隆は南から田村領小野を攻めたが、ともに清顕のために敗退した。しかも、八月清顕は(中略)石川昭光と対陣したが、蘆名軍の来襲の風聞によって陣を引いている。
この年九月、蘆名氏と講和した清顕は、伊具郡をめぐる伊達・相馬両家の調停を企図している。蘆名氏と和解したにせよ、所詮それは永続する可能性はない。外交関係の孤立から脱却するためには、母の実家である伊達、妻の実家である相馬、この両家と友好を締結することである。(中略)清顕の政略はそののちも変わることがなかったのである。
天正六年(一五七八)五月の二階堂盛義と石川昭光との合戦に、清顕は盛義と結んで昭光を討った。昭光は調停を白川小峯義親に依頼し、義親はこれを蘆名盛隆に要請した。盛隆の斡旋によって清顕は不満ながら和議をのんだ。
天正七[1579]年冬、清顕は息女愛姫めごひめを米沢城主伊達輝宗の嫡子政宗のもとに入嫁させた。伊達氏との盟約関係はここに安定したのである。(中略)
天正十一[1583]年二月、清顕は相馬に出張して伊達・相馬両家の抗争を調停した。その春、二本松城主畠山義継は〔四本松(塩松)〕大内定綱と共に、清顕麾下の石川弾正(安達郡百目木どうめぎ城主)を攻め、岩城常隆はこれを後援した。翌十二[1584]年、清顕は塩松に再度出張して定綱を攻めいったんは勝利したが(秋田藩採集大越文書)、のち定綱の軍は田村勢を圧倒し、清顕の弟氏顕は小浜の町人喜万きまん新右衛門に討ちとられた。常隆は五月のころ小野に進入し、麾下の小河越前守に田原谷(田村郡)の地を約束して戦功を励まし、また九月にも赤沼に来襲した。」(『福島県史』)
http://www2.odn.ne.jp/backpage/kafu3-2.htm
0 件のコメント:
コメントを投稿