2023年11月24日金曜日

土御門

 孝元天皇の後胤と伝わる左大臣阿倍倉梯麿の10代目安倍晴明平安時代中期に陰陽頭となり[1]、その子孫も代々陰陽頭を務め[2]陰陽道天文道暦道をもって朝廷に仕えた[1]公家としての家格は半家[3]旧家外様[4]

室町時代有宣の代に家名を「土御門」と称するようになったという[1]応仁の乱後には戦火を逃れて一時若狭国名田庄に移住し、同地で三代にわたって天文や暦学の道場を開いた[5][6]

戦国時代勘解由小路在富の死去で暦術家が絶えた際ににより土御門有脩天文博士暦博士も兼務するようになり、子孫も兼務した[1]。宮中の陰陽寮の執奏を掌握して、諸国の天文・暦道・天社神道・陰陽家を支配下においた[1]。その門流は陰陽道と神道を習合した独自の信仰を伝承し、天文道、暦道、卜筮占星祓禊咒禁方忌など多方面にわたって最高権威として朝野に勢力をふるった[2]

江戸時代の邸宅は梅小路にあり、家禄は177[4]国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の土御門家領は山城国葛野郡西院領のうち10石、山城国葛野郡梅小路村のうち86石、山城国乙訓郡鶏冠井村のうち50石、山城国乙訓郡寺戸村のうち20石、山城国紀伊郡吉祥院村のうち17石6斗で合計5村183石6斗となっている。家司に若杉家、星合家、並河家、吉田家、壱岐家など[4]

江戸時代中期の当主土御門泰福は、神道山崎闇斎に入門して垂加神道を学んだことでその影響を受け、家伝から仏教色の排除に努め、高弟渋川春海(安井算哲)の助力を得て家伝を神道として整理・大成した。これを土御門神道(もしくは安家神道、安倍神道、天社神道)と呼ぶ[2]

中世には改暦は行われなかったが、近世には4回改暦が行われた。天皇に改暦を上奏するのは土御門家の職掌であり、宝暦改暦までは土御門家が改暦に主導権を握ってきたが、寛政改暦や天保改暦では完全に幕府天文方に主導権を奪われた[7]。このことに不満を持っていた幕末維新期の当主土御門晴雄は、王政復古で幕府が滅亡したチャンスを捉え、測量推歩はもともと土御門家の任務だったのに宝暦4年以降幕府に強引に奪われたことを指摘し、土御門家に権限を返還してほしい旨を請願した。この願いは久我中納言万里小路右大弁宰相により即日許可され、土御門家は編暦権を奪還した[8]。また頒暦権(暦を配布・販売する権利)も掌握している[8]

しかし明治2年2月に晴雄が改暦を行いたいと自ら申し出て、政府の許可も取っておきながら、実行できなかった一件があり、政府内にも土御門家に編暦を行う能力があるのか疑問視する声が強まった[8]。特に人員削減を目指す大蔵省は土御門下の暦学者の質を疑い罷免を推奨した。遅くとも明治2年8月までには政府内で土御門家罷免で合意があったと見られる[9]。明治2年10月6日に土御門晴雄が死去したことも土御門家罷免を更に推し進めたと考えられる[9]

明治3年2月10日に天文暦学は大学の所管となり天文暦道局が設立された。8月7日に京都の土御門家のもとに置かれていた天文暦道局は東京へ移され、星学局と改名された。京都の土御門家にも星学局京都出張所が残されたが、それも閏10月27日には閉鎖となった。12月9日に晴雄の養嗣子土御門晴榮に対して正式に大学御用掛からの罷免が申し渡され、土御門家は編暦の任から外され頒暦権も喪失した。明治6年(1873年)のグレゴリオ暦改暦にも土御門家は一切関与していない[9]。陰陽寮と天社神道も明治3年(1870年)に廃止が布告され、土御門家の家業の陰陽道は終焉を迎えた[1]

土御門家は明治2年(1869年)に公家と大名家を統合した華族制度が成立すると土御門家も旧公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 1]として晴栄が子爵位を授けられた[3]。その後貴族院の子爵議員に当選して務めた[11]。3代子爵土御門晴善も貴族院の子爵議員に当選して務めている[11]

土御門子爵家の邸宅は昭和前期には東京市滝野川区西ヶ原町にあった[11]


南北朝時代柳原資明柳原家の祖)の子である保光を祖とする公家。保光と息子資家権大納言に昇った。

だが、嘉吉元年(1441年)7月資家の子である頭弁長淳出家して唐橋在豊の子を猶子に迎えて家督を譲ろうとしたところ、宗家日野家をはじめとする一門の諸家が菅原氏系の唐橋家からの猶子に反対したのをきっかけに朝廷の議論は紛糾して室町幕府もこれに介入し、最終的には後花園天皇の勅裁によって6か所の所領全てを没収され、1か所は唐橋在豊の子に与えられ、残り5か所は中御門家四辻家(ただし、洞院家と所領交換される)などに5分割に処せられて絶家させられた[12]


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