2023年11月15日水曜日

高天原韓國慶尚北道高靈邑説

 筑波大学名誉教授である馬渕和夫<まぶちかずお>博士は古事記と日本書紀の神話編に記録されている「高天原<たかまのはら>」は現在の韓國慶尚北道高靈邑であると主張した。

 その根拠は天孫瓊瓊杵尊<ににぎのみこと>が高天原<たかまのはら>の船津である天磐座<あまのいわくら>を離れて日本に向う時、高皇産靈尊<たかみむすひのみこと>は眞床追衾<まとこおうふすま>(礼服)を瓊瓊杵尊<ににぎのみこと>に着させ、天照大神<あまてらすおおみかみ>は瓊瓊杵尊に八坂瓊<やさかに>の曲玉<まがたま>及び八咫鏡<やたのかがみ>、草薙劍<くさなぎのつるぎ>、三種の寶<たから>物をさづけ、又<また>、中臣<なかとみ>の先租天兒屋命<あまのこやねのみこと>・忌部<いみべ>の先租太王命<ふとたまのみこと>・援女<さるめ>の先租天鈿女命<あまのうずめのみこと>・鏡作<かがみつくり>の先祖石凝姥命<いしこりどめのみこと>・玉作<たますり>の先租玉屋命<たまのやのみこと>・すべて五部の神達<かみたち>をつけそはさせた。

天照大神は皇孫に曰く「葦原<あしはら>の千五百秋<ちいほあき>の瑞穂<みっほ>の國は、是<こ>れ吾が子孫の王<きみ>たるべき地なり。なんぢ皇孫行って治<おさ>めなさい。あまのひつぎのさかえることは、まさに天壤<あめつち>と窮<きわま>りがない。」とおっしゃった。

 皇孫は、天磐座<あまのいはくら>を離れて、天八重雲<あまのやえたなぐも>(海の波)を排<おし>分け進んで九州の西南部の「膂宍<そしし>の空國<むなくに>(なにもない所)「頓丘<ひたを>(山ばかりの地)」を通って現在の笠沙崎<かささのみさき>を南に望む「吾田の長屋」の砂場へ無事に着いた。

 古事記では、皇孫が船から陸地へ飛び降りるや第一声がこの所は韓國<からくに>と向い合っている所だ。朝日が直に射し、夕日がちゃんと照らす国である。だから大変良い所だ。といわれたと記されている。

 ここに瓊瓊杵尊が船から陸地に飛び降りるや否や最初に口を開けた声が「からくにに向ひて」と発言したのは「からくに」に異常な関心を持っていたからに他ならない。自分達が今離れてきた故郷の加羅の地を望みやって、それとのつながりをたしかめたい気持から「からくにに向い」と喝破したのである。

 又、瓊瓊杵尊は劍・曲玉・銅鏡等三種の神器を持って渡った。それ等は昔の加耶の古墳(特に高靈地方の古墳)からはいくらでも発見される物である。(現在筆者が勤めている加耶大學校の博物館にもある。)それから朝日が直ちにさしてくる国、夕日がちゃんと照らす国、だから大変良い所だ。と話した瓊瓊杵尊はきっと、からくにのどこかの山奧の盆地に住んでいた人、即ち朝日は東山に隠れて遅れて顔を現わし、夕日は西山に早く落ちる所に暮らしていた人だったと判断される。

 一方天照大神の弟である素戔鳴尊は古事記と日本書紀に性質が荒くて悪かったために高天原の諸神から天座置戸<ちくらおきと>の罰を受けて高天原から追い出されてその子五十猛神<いたけるのかみ>をつれてソシノモリ(韓国語、牛頭山)の塵へ行って一時暮らしたが、その地は気に入らなくて、船を作って息子と共に東の海を渡って島根の出雲へ着いた事実と、又、素戔鳴尊は出雲に暮らしていながらも「からくにの故郷には金銀が有る。吾が兒五十猛神を使わしてそれを取ってこようか。」とも話したと日本書紀に記録されているのを見ても、瓊瓊杵尊も韓國<からくに>から渡って来たことに間違いがないと信じていた。後日「高天原の故地」は新羅近くの西方の(東方ということはあり得ない)山中の盆地という条件にうまくぴったりと合った所が「高靈」と称する所であった。「高靈」は昔、十個加耶の宗主国であった、任那加羅の首都があった所である。「任那」とは韓国語の「IMNA」で「主人の国」或いは「お母さんの国」と云う意味である。日本の大和政府は高靈の地にあった加羅を「任那加羅」と称していた事からも任那加羅は大和政府の母国であったことを充分知り得る。三國志巻三十、魏書三十、烏丸鮮卑東夷傳第三十には韓は帯方の南にあって東西は海に接し、南は倭と接している。四方約四千里、馬韓、辰韓、弁韓と三つに分かれていた。

 辰韓、弁韓各々十二国があって、弁韓には彌烏邪馬國(Mio Yamatto)と云う国もあった(今日の高靈地方)韓国語の発音ではYAMATTOである。TTOと云うのは「地方」のことである。後世漢字を使用した時からTTOは「国」と変わったのである。「邪馬台」も「大和」も皆韓国の発音ではYAMATTOである。

 この様な語源から見ると「邪馬台」も「大和」も皆ふるさとは彌烏邪馬國であったことを知り得る。馬渕博士は1982年5月教え子である大邱啓明大學校の李賢起教授(その後高麗大學校に転ずる)と慶北大學校の洪思滿教授の案内に依って加耶山海印寺へ訪れる途中高靈邑を見下おろす錦山峠の項上に至って車を止まらせて、高靈の地理的環境が胸に打たれその所が今迄探がしていた高天原の条件にぴったりと合ったので「此處が高天原の故地」だと叫んだ。とおっしゃった。

 筆者は1999年1月18日馬渕博士の学説を全的に支持して博士と相談の上、加耶大學校の敷地の中約5万坪の山地を高天原公園に造成しその中央の小高い丘の上に「高天原故地」と刻んだ大きな石碑を建立し1999年6月28日には日本からは馬渕和夫博士を始め多くの祝賀客を迎えて除幕式を盛大に終えた。

http://www.miraikoso.org/takaten/taka1.htm

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