2023年11月29日水曜日

 播磨きっての名族として知られる赤松氏は、伝えられる系図などによれば村上源氏といわれる。すなわち、村上天皇の皇子具平親王の子師房が源姓を賜り、師房五世の孫師季が播磨に配流され、同国佐用庄に土着したのが始まりという。すなわち、師季の子季房の代になって勅免され、季房は播磨を領有して白旗城に拠ると赤松氏を名乗るようになったという。

 しかし、これには異論があって、季房-季則-頼範-則景-家範と続いた家範のときにはじめて赤松氏を名乗るようになったとする説が有力である。家範が佐用庄の最南端の赤松村を名乗りとしたのも、佐用庄地頭職則景の末子であったことから妥当性がある。おそらく、佐用庄赤松村の地頭代といった立場にあったものであろう。この家範を初代として久範・茂則と続き、赤松氏の名を世に高からしめた則村が登場するのである。
 則村は法号円心といい、元弘・建武の争乱にあたり、護良親王の令旨を受けてこれに応じ、御醍醐天皇方として大活躍した。しかし、天皇親政の建武の新政府は、円心の戦功に対して佐用庄のみを安堵するというものであった*。そもそも、新政府の恩賞沙汰は依怙贔屓なことが多く、倒幕に功のあった武士たちには不満を抱く者が少なくなかった。円心も不満を抱く武士のひとりで、建武二年(1335)、足利尊氏が新政に叛旗を翻すとすかさず応じた。
新田義貞を大将とする討伐軍を箱根の戦いで撃破した尊氏は、敗走する官軍を追撃して京都を征圧した。ところが、奥州より上洛してきた北畠顕家軍に敗れた尊氏は、再起を期して九州へ逃走した。尊氏の西下を見届けた円心は白旗城に拠って追撃してきた新田軍を播磨に釘付けにし、尊氏が東上してくると合流、楠木正成を湊川にるなどの功をあげた。この軍功によって室町幕府が成立すると、則村は播磨守護職に、長子範資は摂津守護職に任じられ、赤松氏は一躍山陽道の要地を押さえる有力大名にのしあがったのである。
 観応元年(1350=正平五年)、尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱に際して、円心は尊氏方に与し、次子貞範をして姫路城を築かしめて備後の足利直冬に備えた。円心の没後、遺領は長子範資に与えられたが、間もなく範資も没したため、幕府は赤松家惣領職を円心の三男則祐に指定した。以後、この則祐の系統が赤松氏本宗として隆盛、戦国時代に続くのである。
 則祐の死後は嫡子義則が家督を継いで惣領となり、播磨・備前の守護職を継承した。さらに、侍所頭人に就任、京極・一色・山名らと並んで四職家の一家に数えられた。明徳二年(1391)、山名氏の内訌から明徳の乱が起ると、義則は他の守護大名とともに討手に差し向けられた。義則の率いる赤松軍は義則の弟満則が戦死する奮戦振りをみせ、乱後に美作守護職を与えられた。
 応永三十四年(1427)に義則が没すると、満祐が家督を継いだ。その翌年、将軍足利義持が死去し、籤引きによって選ばれた青蓮門跡義円が将軍職に就き義教と名乗った。将軍となった義教は幕府権威の復興と将軍親政の復活をめざして専制政治を行った。義教は有力守護大名家の家政に介入して斯波氏・畠山氏・京極氏・山名氏などの家督を意のままにし、一方で、一色義貫・土岐持頼らの守護大名を粛正した。義教の苛政は武士だけではなく、公家・僧侶にまでおよび、「万人恐怖」とよばれる時代を現出した。
 有力守護大名のひとりである赤松満祐も、やがて討たれるであろうという噂が生じ、追い詰められた満祐は義教謀殺を計画するにいたった。嘉吉元年(1441)六月二十四日、結城合戦平定の祝賀と称して将軍義教を自邸に招いた満祐は、宴たけなわを見計らって殺害したのである。世にいう「嘉吉の乱」で、満祐は京の邸に火をつけると一族・郎党とともに播磨に帰った。満祐と赤松一党は、城山城に拠って細川および山名ら幕府軍を迎え撃ったが、城は落城、赤松宗家は没落した。
その後、赤松氏の再興を画策した遺臣らは、禁闕の変で奪われた神爾を奪還すると主家再興をを願い出た。長禄二年(1458)、幕府は満祐の弟義雅の孫政則を取り立てると加賀半国の守護に任じ、赤松氏の再興がなったのである。政則は応仁の乱に東軍の中核勢力として活躍、山名氏が任じられていた播磨・備前・美作の守護に復帰、旧勢力を取り戻すことができた。
 応仁の乱が終わったのち、播磨に下向した政則は祖先の本拠地白旗城や守護館があった揖保郡越部に拠らず、飾磨郡の置塩城に本拠を置き置塩館と呼ばれた*。政則は播磨回復を狙う山名氏と死闘を繰り返したが、文明十五年(1483)に真弓峠の戦いに大敗を喫し、家臣らに見放されて堺に出奔するということもあった。その後、将軍足利義政の仲介で家臣らと和睦した政則は、山名氏を駆逐して領国体制を確立した。以後、将軍義政のあと義尚、ついで義材に仕え、明応二年(1496)には従三位に叙せられるなど赤松氏にかつての栄光をもたらしたのである。
 しかし、赤松氏の栄耀栄華は、浦上氏ら重臣に支えられたものであり、その内実は必ずしも磐石ではなかった。男子がなかった政則は早い晩年に管領細川政元の妹を娶ったが、男子に恵まれないまま明応五年に病死した。享年四十二歳という若さであった。一説に政則には側室の生んだ男子村秀がいたが正室細川氏に遠慮して、一族の下野守政秀に託して龍野城主にしたという。しかし、村秀のことは確実な史料からはうかがうことができない。
 政則の後継に迎えられたのは、一族七条政資の子道祖松丸であった。政則の死後、家督を継いだ道祖松丸は義村と名乗ったが幼少であったことから、重臣筆頭の浦上則宗が実権を掌握した。しかし、これに反発する別所・小寺氏ら他の老臣と則宗の間に反目が生じ、やがて赤松宗家をゆるがす内乱へと発展していくのである。事態は幕府管領細川政元によって無事解決したが、ほどなく、赤松氏を支えた浦上則宗・別所則治・赤松政秀らが病没、幼い義村を援けて家政を見る人物がいなくなってしまった。
かくして、幼い義村を補弼したのは政則の正室で未亡人洞松院であった。洞松院は永正三年(1506)ころより、義村が成長するまでの十年間、当主代行として印判状を発行し、領国支配を担当した。
 この時期、室町幕府では足利義澄・義稙の二人の公方が対立し、それぞれを細川澄元・細川高国が擁立して争っていた。赤松義村は足利義澄・細川澄元派に味方。再起を図る義澄派と呼応し、永正八年、大軍を摂津国へ侵攻させ、鷹尾城を攻撃した。結局、赤松義村の推す足利義澄は舟岡山合戦で大敗し、翌年には洞松院局の外交によって足利義稙派と赤松氏の間に和睦が成立したが、その後も義村は義澄の遺児亀王丸(後の十三代将軍足利義晴)を播磨国に迎えて保護・養育している。
 永正十四年(1517)、ようやく本格的な執政を開始するようになった義村は、浦上村宗・小寺則職の宿老二人による評議に加え、櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親から側近で構成される三奉行体制をしいた。宿老を牽制しながら自らの権限を拡大しようとする義村の親裁体制強化は、宿老筆頭浦上村宗の反発を招くことになった。さらに宿老体制内でも浦上氏と小寺氏の対立が起き、村宗に関する讒言を信じた義村は村宗の出仕を差し止めた。村宗は本拠地備前国へ去ったが、備前三石城に籠もると主家赤松氏に反旗をひるがえした。
村宗の謀反に怒った義村は、永正十六年冬、自ら軍勢を率いて三石城を包囲攻撃した。しかし、備前国最大の国人松田氏が浦上方に後詰することを知ると撤退を余儀なくされ、翌年には美作国飯岡・岩屋城などで次々と浦上軍に敗退した。勝ちに乗じた村宗は播磨国に乱入、優勢に立つや義村に引退を迫った。永正十七年十一月、ついに義村は嫡子道祖松丸(後の政村・晴政)を浦上方に引き渡した上、引責辞任に追い込まれたのである。
 翌年の正月、東播磨の諸将に支えられて再起の兵を起こした義村は、足利義晴を奉じて御着城まで進軍したものの、再び裏切り者が出て敗北してしまった。その後、浦上村宗は義村が保護する足利義晴を確保する目的で和睦を提示し、これに乗せられた義村は和解の席で村宗に捕縛された。播磨国室津に幽閉された義村は、同年九月、浦上村宗が放った刺客に襲われ壮絶な最期を遂げた。
 永正十七年、義村から家督を譲られた政村は、翌年、浦上村宗に父を殺害されたうえに自身も拘束されてしまった。その後、山名氏の播磨侵攻に対して浦上氏と手を結んだこともあった。しかし、山名氏が去ったのちは、浦上氏に置塩城を奪われるなど劣勢におかれていた。
播磨が浦上氏の下剋上に揺れいてるころ、幕政は細川高国が牛耳っていたが、大永七年(1527)、細川晴元に敗れて流浪の身となった。高国を迎え入れた浦上村宗は、享禄三年(1530)、細川晴元を討つべく出撃するや破竹の勢いで播磨、摂津を席巻した。翌年、細川高国・浦上村宗連合軍は摂津天王寺において細川晴元・三好連合軍と対戦した。細川高国の援軍として出陣した政村は、神呪寺で後詰をしていた。戦いは高国方の優勢であったが、にわかに晴元方に寝返った政村が後方を撹乱した。この政村の裏切りによって、晴元方の勝利が決定、浦上村宗は戦死、細川高国は自害に追い込まれた。
 村宗の戦死によって政村は権力を回復したかにみえたが、村宗の子である浦上政宗・宗景兄弟との対立はその後も続いた。さらに、天文六~八年(1537~39)には出雲の戦国大名尼子晴久の播磨侵攻が始まり、赤松一族や年寄衆の多くが尼子方に走った。追い詰められた晴政は、播磨を捨てて淡路、さらに和泉の堺へ逃亡する始末となった。
 天文十一年(1542)、幕府の援助を得て播磨に復帰した政村は、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政と改めた。そして、尼子方に奔った一族を討伐、守護権力の回復を図った。自立を目論む別所・明石氏らの重臣が離反すると、政村は三好長慶の協力を得てなんとか鎮圧に成功した。ところが、今度は息子義祐との対立を深め、永禄元年(1558)、ついに置塩城を追われた政村は娘婿の赤松政秀を頼って龍野城に奔った。その後、置塩城への復帰を画策したがならず、永禄八年、龍野城で失意のうちに病死した。
 晴政を追って置塩城主となった義祐は、懸命に斜陽の赤松氏を支えようとした。しかし、自らも嫡男の則房と対立するようになると、三木城の別所安治の保護を受け家政は安定しなかった。その後、則房と和解して置塩城に復帰した義祐であったが、龍野城主赤松政秀、三木城主別所安治と反目するようになり、浦上宗景・小寺政職と結んで対抗した。永禄十二年(1569)、政秀・安治を支援する織田信長勢と戦い、なんとか撃退したものの、翌元亀元年(1570)に家督を則房に譲ると隠居してしまった。以後、義祐の動向は知れないが、天正四年(1576)に死去したことが知られている。
義祐のあとを継いで赤松氏の家督となった則房は、浦上宗景・小寺政職と結んで東播磨の別所長治と抗争を繰り返し、赤松氏の頽勢挽回につとめた。ところが天正元年(1573)、織田信長が浦上宗景に播磨・備前・美作三ヶ国の朱印状を交付したため、則房は播磨一国の統治権を喪失、地方領主の地位に転落してしまった。以後、龍野赤松氏・三木別所氏・御着小寺氏らとともに信長に臣従するようになったが、置塩屋形として一定の敬意は払われていたようだ。
 天正六年(1578)、別所長治が織田信長に叛旗を翻すと播磨国衆の多くが長治に同調した。しかし、則房は織田方に止まり、別所氏・宇野氏らと戦った。天正十年、本能寺の変によって信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉に従い、賎ヶ岳の戦い・四国征伐に出陣した。豊臣政権が安定をみると、阿波国住吉一万石を与えられ、父祖伝来の地である播磨から退去した。ここに至って、播磨における赤松氏宗家の歴史は幕を閉じたのである。
 阿波に移ってのちの赤松氏の歴史は不明な点が多く、則房の最期も天正十三年(1585)に亡くなった、関ケ原で西軍に属し自害させられたなど諸説あって定かではない。則房の死後、則英が相続して関ヶ原の合戦に出陣したというが、則英の実在を裏付ける史料は発見されていない。播磨の中世史に大きな足跡を刻んだ赤松氏であったが、その最期は消えた虹を探すように頼り無いものとなっている。
 戦国時代、甲斐の武田氏、薩摩の島津氏などのように守護大名から戦国大名に脱皮した家もあったが、守護代長尾氏に取って代わられた越後上杉氏のように下剋上の波に消え去った家も多い。播磨守護の赤松氏の場合、重臣浦上氏の下剋上にさらされながら、よく戦国時代を生き抜いたといえよう。しかし、傑出した当主に恵まれなかったことから重臣たちの離反を招き、強固な領国体制を築くことはついにできなかった。結果、天下統一がなったとき、赤松氏を頂点とした播磨の中世体制そのものが崩壊していた。それが、赤松氏が没落した最大の理由であったといえそうだ。
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