2023年11月30日木曜日

三穂太郎満佐

 『東作誌』所収の有元家略系図に、三穂太郎満佐について次のような記述がある。

(略系図ここから)菅丞相道真公八代(道真公子高視、其子緝熙、其子資忠、其子良正、其子薫宣、其子持賢、其子長頼)→菅原長頼の子 知頼(作州へ配流、美作守とす。嘉保年中作州勝田郡に卒す。是美作菅家之元祖)→真兼(美作押領使、保安元年庚子於久常村卒)→尚恕(民部介改是宗)→仲頼(菅四郎、高円大見丈城主)→満佐(仲頼実子)(略系図ここまで)
また、
満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也。満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行或云播州中山村佐用姫明神通妻妬而殺満佐干時天福二年甲子九月十五日満佐五十二才也満佐屍解飛去数仙不知其終干今祀其霊。豊田庄氏神矣関本亦三穂太明神之宮祠則祭日九月十五日也

とあり、これらの記述によると、満佐は菅原道真の子孫であり三穂太郎と号し、名木山(那岐山)に城を構え、豊田右馬頭の娘との間に七人の子をもうけたことになっており、また飛行の術を自在にあやつった異能の人であったともいう。
なお、文中の「屍解」とはおそらく「尸解」のことであろうと想像される。
「屍」と「尸」はどちらも音通で人間のしかばねをあらわす漢字であり、尸解とは死後、肉体をもったまま仙人になることである。満佐は死後、昇仙したのである。
今でも那岐山麓のどこかで、子孫たちの営みを静かに見守っているのかもしれない。

※注釈1-2b:『抱朴子』
東晋の神仙思想家葛洪(283~343)は『抱朴子』という後世の神仙思想に多大な影響を与えた書のなかで、『仙経』にいうとして、「上士は飛挙して虚空にのぼる。これを天仙という。中士は名山に遊ぶ。これを地仙という。下士はまず死んで、そののち蛻(もぬ)く。これを尸解仙という。」と述べ、いったん死んで亡骸を脱ぎ捨てた後、しばらくして再び肉体を取り戻して復活することで不老不死になった者を「尸解仙」という、とある。内篇20篇、外篇50編からなり、内篇では主に仙人になるための理論と実践が述べられている。(注釈1-2bここまで)

 

また同じく植月家略系図には
(略系図ここから)菅原道真公(菅亟相道真公男延喜元年辛酉美作国下向無帰而卒作州菅家之祖菅公之子男女凡二十四人)→真俊→好直→矩直→直賢→行泰(延喜承徳之間百九十餘年美作国勝田郡豊田庄為処士)→仲頼→康政→高堅→公興(民部輔五位下七十二代後鳥羽院建久九年戌午領知作州勝田郡続父学才)→満佐(三宝太郎叙従五位下美作国勝田郡是宗城主云々)(略系図ここまで)
とあることから、菅原道真の子孫にして三宝太郎と号し、是宗城主であったことになる。
文化10(814)年ごろ皆木保実によって著された『白玉拾』豊田庄是宗村の項に
三穂太郎は、豊田修理之進の聟と云い、菅家七流の祖と聞伝ふる
という記述がみられる。
三穂太郎が三宝太郎、名木山城が是宗城、妻の父親が豊田右馬頭であるところを豊田修理之進になっているなど細部はことなるが、総合すると満佐は、菅原道真の子孫を名乗り、代々那岐山麓一帯に勢力を張る地方領主の一人であり、菅家七流の祖であることでおおむね一致している。
※注釈1-2c:菅家七流
一般に有元、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の家を指すといわれ、廣戸のかわりに野上、鷹取のかわりに豊田とする説もある。また福元、弓削、垪加、菅田などを加える場合もある。(注釈1-2cここまで)

満佐はいったいいつごろに生きた人だったのか。
系図は編纂者の都合でさまざまな改ざんが加えられるのが常であるから、本当のところはわからないとしかいいようがない(満佐にしても、有元略系と植月略系ではすでに内容が異なる)が、仮に当時の平均寿命を約50年、家督を譲られてから約20年で世代交代するとして、『東作誌』有元家略系図中、満佐の三代前、保安元(1120)年卒の真兼を基準にすると満佐は1160年代から80年代にかけて活躍した人ということになる。
また、有元略系には天福2(234=文歴元年と改元)年52歳卒とあるので、逆算すると寿永2(1182)年に生まれたことになり、先の概算と活躍年に60~80年ほどのずれを生ずる。
その他、『美作略史』では文歴2(1235)年卒、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』では父実兼と母が弘長3(1263)年に出会い、まもなく生まれたことになっているので、太郎は1263~4年生まれになる。50歳で死んだとすれば1310年代前半である。
※注釈1-2d:『美作略史』
全4巻。矢吹正則著;矢吹金一郎校正。明治14(1881)年発行。和銅6(713)年から明治4(1871)年に至る美作地方の歴史を編年体で記録した歴史書。本稿は『美作略史』(1976年、名著出版刊)のものを参考にした。(注釈1-2dここまで)

ごらんのように、資料によって満佐の活躍年代にはかなりの時代的隔たりがみられるが、仮に『東作誌』有元家略系図によれば鎌倉時代中期、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』によれば鎌倉時代末期の人ということになる。

https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

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