播磨とは、今の兵庫県南西部を指す古代の国名で、播州とも言う。10世紀に編纂された『延書式』では大国とされ、明石以下12郡よりなっていた。その古代の様子は、一部欠落して現存する『播磨国風土記』 にうかがわれる。
播磨の渡来系文化について関心を持つきっかけは、編集者として沖浦和光氏の『陰陽師の原像』の取材に同行したことにある。それまで神戸界隈を観光や仕事で歩くことはあったが、播磨の奥深くに渡来系の文化が息づき、それが今に至るまでしっかりと生き残っていることに深い関心は持っていなかった。そもそむ被差別部落をキー概念として、日本民衆の精神史に深く踏み込む契機となったのが沖浦氏との取材であり、編集者として日本各地をともに歩いたことによる。
二度にわたる現地取材を通じてはっきりしてきたことは、播磨の文化には、渡来系の痕跡が色濃く残っていることである。そのなかでも秦氏の果たした役割が極めて大きいことが分かってきた。古代以来、日本文化史のなかで秦氏は極めて重要な位置を占めている。先進技術、豊かな財力、呪術に由来する芸能への感性き、いわゆる日本文化の枢要は、実は渡来系集団の秦氏が占めてきたといっても過言ではない。
その秦氏の文化の重要な側面が、この播磨の地に存在していたのである。播磨における秦氏の役割を考えることで、秦氏集団の性格がかなり見えてくるだろう。そしてそこから日本文化のひとつの本質を読み解く鍵が見えてくるはずである。
まずは辞書的な意味を確認すると、『岩波日本史辞典』では次のように記述している。
古代の渡来系氏族。姓(かばね)は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、 実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。
秦氏の集団が、朝鮮半島からの大規模な渡来集団であり、さまざまな先進技術を持って日本各地に移住し、政治的にも大きな勢力として古代王権にも大きな影響を与えたことが、ここから分かる。
さらに秦氏に関する詳細な研究を行なってきた大和岩雄は、その主著『秦氏の研究』のなかで「秦氏は渡来氏族の中では最大であり、日本の文化・経済・宗教・技術・政治などに、広く、深く、影響を与えている。だから、秦氏について考究することは、最大の渡来氏族についてだけでなく、日本の文化・経済・宗教などについての考究にもなる」と述べている。
秦氏の文化的功績については後に大避(おおさけ)神社のところで詳しく見ることになるので、ここではまず大和岩雄の研究成果や、同じく秦氏の古代社会における特質を詳細に分析した加藤謙吉『秦氏とその民』などに拠りながら、秦氏の技術者集団の側面と、渡来系氏族としての特徴を見ておくことにしよう。
両氏の研究によれば、秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にし、日本人の在地の農民なども組み入れながら成立した擬制的集団(厳格な権利・義務関係を伴うが、一般庶民の間にも制度的な親方・子方関係があり、両者の間には、義理と人情を伴った庇護(ひご)・奉仕の双務的関係の集団)である。出自や来歴を異にしているために、民族的な求心力はそれほど高くはなく、秦氏を構成する各集団は自立的な性格が強かった。大和政権への隷属という点が大きな特徴であるが、秦氏が政治的な意思を持って団結することは少なく、むしろ経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。
むしろ秦氏の最大の特徴としては、さまざまな最新技術を持った集団であったことを特筆しておく。その技術力による生産活動を、加藤謙吉は四点に整理している。
まず第一点として、製塩技術をあげる。棄民の拠点である北陸の若狭・越前では、多数の土器、製塩遺跡が発掘されている。その地の秦氏が、製塩に従事していたことは疑いがない。また西日本の土器、製塩の中心である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内地域)にも多数の秦氏集団がいた。
さらに播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んであったが、すでに奈良時代に塩田開発に従事したと思われる秦氏の者がいる。『平安遺文』に収録されている「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」によれば、赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去したという。言うまでもなく塩は生存に不可欠の物産である。その意味でも優れた製塩技術をもたらした秦氏の功仙清は大きい。
第二に銅生産をあげる。次節で詳しく述べるが、秦氏の原郷は朝鮮半島東南部の産鉄地帯である。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈であった。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進め、やがては全国の鉱山に足跡を残す。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていたのである。
第三点は朱砂と水銀である。これも広い意味では鉱物資源であるが、あえて特筆する理由は二つある。まずひとつは、朱砂という赤色顔料による色の呪力である。弥生時代から古墳時代にかけて、遺体の埋葬に施朱の習慣があった。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたのかもしれない。
もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことである。全国各地にある丹生神社は、と重なっており、それだけ需要が高かったと言えよう。
第四点は土木・建築技術である。京都・太秦は秦氏最大の根拠地であるが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑に役立てた。それ以外にも、茨木の茨田場をはじめ多くの土木工事に関わった。さらに長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと見られる。
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