菅原道真の子孫を名乗る男が、菩提寺で女と出会い、太郎丸という名の男児をもうけた。
※注釈1-1b:浄土宗高貴山菩提寺→那岐山の中腹にあり、行基によって開かれたと伝えられる。『菩提寺古今録』によると延暦24(805)年まで法相宗、承安4(1173)年まで天台宗、寛文5(1665)年まで浄土宗、明治6(1873)年までは真言宗であったという。「法然上人行状絵図」や「元亨釈書」などによれば、浄土宗の開祖法然(1133-1212)は13歳で美作国を出て比叡山にのぼるまで、伯父にあたるこの寺の院主観覚の元にあった。奈義町高円地区。(注釈ここまで)
女は太郎に乳をやるときだけは産屋をのぞかぬよう男に約束させたが、我慢しきれなくなった男は、とうとう産屋を覗いてしまった。
そこにはとぐろを巻いて太郎に乳をやる大蛇が…女は蛇精だったのである。
正体を見破られた大蛇は去り際、山を八巻きして約束を破った男への恨みをあらわした。以後、大蛇が消えた山=能畝山〔とかりやま〕は、八(鉢)巻山と呼ばれるようになった。
※注釈1-1c:八(鉢)巻山→さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。那岐山の支峰については位置のはっきりしないものも多いが、菩提寺の南西付近を指すといわれている。(注釈1-1cここまで)
男は太郎を連れて山中をさまよい、やがて淵のほとりで大蛇に再会した。
大蛇は五色に光る珠を差し出し、太郎が乳をほしがったらこれをしゃぶらせるように伝えると、淵の中へ消えていった。大蛇が消えた淵は蛇淵と呼ばれるようになった。
※注釈1-1d:蛇淵→さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。(注釈1-1dここまで)
その後、珠の霊力でぐんぐん成長し、雲も突き抜けるほどの巨人になった太郎は、仙術を自在に操り、三歩で京まで行き交い、奈義の地にいながら禁裏の護衛を勤めたので「三歩太郎」と呼ばれた。
この地方きっての勢力者になった太郎は豊田姫との間に七人の男児をもうけたが、一方で播州の佐用姫の元にも通っていた。
ある時、豊田姫に嫉妬した佐用姫が草履に仕込んだ針で足の裏に傷を負った太郎は、それが元で死んでしまった。
※注釈1-1e:精霊である大蛇の血をひくたろうは金気に弱かったと伝えられる。また草履に針を仕込んだのは、佐用姫に横恋慕した頼光という男であったともいわれている。(注釈1-1eここまで)
大地に倒れ伏したなきがらのうち、頭は関本の里、胴体は西原の里、かいな(腕と肩)は因幡の土師、右手は梶並の里へとどまった。
また血は川に、肉は黒ぼこという肥沃な黒土になり、息吹は北大風をよんだ。
地元の人間は、那岐山から吹き下ろす大風を「さんぶたろうが吹く」と呼んで恐れ敬ったという。
※注釈1-1f:さんぶたろうに関するさまざまな伝承
前記のほかにも、岡山県奈義町、勝田郡、美作地方東北部一帯には、さんぶたろうに関する伝承地が数多く残っている。(『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)から引用、または参考にした。)
A.地名に関する伝承
(1)頼光(よりみつ):さんぶたろうの恋敵である頼光の在所。奈義町西原地区。
(2)豊田屋敷:奈義町西原地区、柿地区へ越す古道の谷頭地。さんぶたろうの妻小菅戸のいた豊田氏の住居地という。
(3)さんぶたろう屋敷:那岐山頂、あるいは是宗川上流、是宗城(細尾城)の北方人形石より戌亥の方角の山頂にあったといわれる。
B.さんぶたろうの死に関する伝承
(1)さんぶたろうが吹く:かつて北風のつよく吹く日には「さんぶたろうが吹き出した」と言った。彼の死にあたり吐き出した息吹という意味。
(2)くろぼこ:那岐山麓一帯の肥沃な黒土を「くろぼこ」と呼ぶ。さんぶたろうが死んだ後、その肉や血がくさってできたものといわれる。
(3)「じやがたに」または「ちあらいのたに」:さんぶたろうの死んだ時、那岐山の一角が崩れてできたといわれる。また一説には鎌倉山城の北方のこの地で戦いがあり、その血をあらったために「血洗いの谷」というともいう。
(4)山麓に点在する巨石群:さんぶたろうが死んだ時那岐山が崩れて飛び散ったものといわれる。
(5)さんぶたろうの四方に飛び散った亡骸を祀ったところ
イ.三穂神社=三穂大明神。さんぶたろうの頭部を祀る。別名「こうべさま」。奈義町関本地区。
ロ.杉神社=荒関大明神。さんぶたろうのあら(胴体)を祀る。別名「あらせきさま」。奈義町西原地区。
ハ.河野神社=さんぶたろうの肩の部分を祀る。そのため肩や手の病気にご利益があるという。別名「若一王子権現=にゃくいちさま」。鳥取県八頭郡智頭町土師。
ニ.右手大明神=さんぶたろうの右腕を祀る。勝田町梶並(現美作市)。ここにいうさんぶたろうは、源氏の落ち武者近藤武者是宗の子三穂太郎勝正をさす。
C.さんぶたろうの行動に関する伝承
(1)さんぶたろうのせっちん岩:是宗の奥の谷間に岩がかたまっており、さんぶたろうが谷の稜線をまたいで排便した跡といわれる。また那岐山頂三穂太郎屋敷から巽の方角に井戸、南の方に長さ八間横六間の厠と呼ばれる黒石があったともいわれる。
(2)さんぽたろうの名の由来:さんぶたろうは三歩で都まで行ったので三歩太郎と呼ばれたという。
(3)さんぶたろうは、那岐山頂に腰を下ろして、瀬戸内海で足を洗った。
(4)さんぶたろうは、那岐山に腰を下ろして因幡の賀露の浜で足を洗った。
(5)さんぶたろうは、那岐山と備前の八塔山(和気郡吉永町〔現備前市〕)をひとまたぎした。
(6)さんぶたろうが那岐山をまたいだとき、ふぐり(陰のう)がふれて山頂の一部がへこんだ。
(7)中島西津山渡瀬の北方の淵:さんぶたろうが那岐山と八頭寺山をひとまたぎした時、金玉がこすれてできたといわれ、現在は河川改修のためなくなった。奈義町中島西地区。
(8)きんたま池:現在は約十坪ほどの小池であるが、湧水があるため、早魅時にも決してかれることがないといい伝えられている。さんぶたろうの金玉を押しつけた跡が池になったといわれる。この池より南方にわたり、かつては窪地となり、沼澤乃至湿地帯であったようである。奈義町滝本地区八軒屋。
(9)津山市瓜生原:さんぶたろうの金玉によってできたといい、山の斜面に禿地があり「きんすり」という。
(10)小鞠山:さんぶたろうが都に上る時、草履より落ちた土塊が転がってこの山になったといわれている。
(11)さんぶたろうの足跡に関するもの:
イ.さんぶたろうの第1歩=滝山の四方に樹木のあまり生えぬところあり、「さんぶたろうの第1歩」であるといわれる。
ロ.さんぶたろうの第2歩目=勝央町植月地区長良池南方の巨石に足跡の形の凹みがあり、これが「さんぶたろうの第2歩目」の跡といわれる。
ハ.さんぶたろうの足跡=現在の那美池あたりにさんぶたろうの足跡と呼ばれる20間四方の足形地があったといわれている。奈義町宮内地区道林坊。
ニ.さんぶたろうの足跡=さんぶたろうの足跡といわれる八間四方の貯め池があり、夏冬とも水が涸れなかったという。奈義町柿地区逧谷。
ホ.跡田=西原の南、柿に接する谷間にあり、さんぶたろうが都に上る時の第1歩の足跡といわれ五畝ばかり足形様をしていたが、現在は整理されて原形をとどめない。奈義町西原地区。
ヘ.さんぶたろうの足跡田=勝北町安井地区(現津山市)。
ト.さんぶたろうの足形石=綾部村熊井谷の内西畑に在り、さんぶたろうの古跡といわれる。
チ.さんぶたろうの足形=昔、荒内西新地の東に窪地があり、さんぶたろうの足形と呼ばれていた。現在は水路の工事などにより原形をとどめない。
D.さんぶたろうの食事に関する伝承
(1)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:西原字細田の川の中の巨石。高さ幅とも2メートル超。奈義町西原地区細田。
(2)さんぶたろうの飯行李に入っていた石:勝北町こえがたわの奥津川寄りに牛よりやや大きいくらいの石がある。
(3)さんぶたろうのおかゆに入っていた石:ひと抱え以上もある表面が滑らかな石で、現在は某家の墓の台座になっている。奈義町滝本地区長谷。
(4)蛇淵の南方、川縁の石:さんぶたろうがいりこを食べる時、碗を吹いたら飛び出した石といわれる。
(5)さんぶたろうのお櫃石:人の身長位の高さがあり、飯をすくう杓子の跡があった。近藤村(現在の奈義町滝本地区)の久保田にあったが、那岐池構築のとき石垣用に砕石された。
(6)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:那岐山大神岩の下方にある黒石。
(7)釜田:昔、盗賊がさんぶたろうの釜を盗んだところ、にわかに大雨が降り出したため持ち帰ることができず、その場に置き捨てていった。その場所は釜田とよばれるようになり、捨てていった釜が今も土の中に眠っているといわれる。
(8)右手奥の坂の石:さんぶたろうが立石に腰をかけ昼飯を食べていた時、弁当の中にあった小石。箸ではさみ投げ捨てたところ、向かい側の奥の坂に落ち、地面に食い込んで止まったものといわれる。(現美作市)
(9)曾井の大岩:さんぶたろうのいりこの中に入っていた石といわれる。勝央町曾井地区。
E.その他の伝承
(1)双子山:さんぶたろうが力試しに二つの山をかついだところ、もっこの緒が切れてできた山といわれる。
(2)十王堂の十王像:きわめて古い時代のものといわれ、土の中から頭を出しているのはほんの一部分に過ぎず、実際の目方・大きさははかりかねるほどといわれる。もともとさんぶたろうが背負っていたものを落としたことに気付かず、そのまま通り過ぎてしまったため、以来ここにあるという。また別の言い伝えではある人が、川の中に光るものがあるのを夢に見、それが元で発見されここに安置されたともいわれている。勝央町岡地区。
(3)疣(いぼ)池の岩:岩に空いた孔から水が湧き出て池を成しているといわれる。さんぶたろうの杖の跡といわれ、ここに精米を入れ、その水でイボを洗うとたちまちイボが落ちるといわれている。勝田町真加部地区(現美作市)。
また岩は、余野と真加部の境界、梶並の水中にあって直径1尺ほどの丸い穴(砂などで深さはわからないという)があるといい、疣池様の石を借りてきてイボをさすり、治ったら石3個をお返しするとよいといわれる。
(4)杖の跡石:国ヶ原にあり、さんぶたろうの杖の跡という。津山市綾部地区。
(5)しおの下さま:さんぶたろうが牛に乗ってふもとから担ぎあげたと伝えられる。高さ十メートルぐらいでふもとの石には牛の足形が残っている。
(6)さんぶたろうの飛礫石:和田村の境にある直径八尺ほどの大岩。
(7)跡岩:連光寺の奥にあり、長さ8尺、幅7尺、厚さ五尺の黒岩。人の足跡(8~9才ぐらいの童子の足跡のよう)と馬の足形があり、さんぶたろうが那岐山から後ろ向きに投げたためこの地にとどまったという。
(8)さんぶたろうのちんぽ石:広岡の大谷池の北方、あたご様の上方にあり、全高約一メートル超の石。男根に似ている。
(9)蛇淵:さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。
(10)八(鉢)巻山:さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。(注釈1-1fここまで)
(1-2節ここまで/1-3節につづく)
https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html
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