秦氏の出目
秦氏はたうじは、「秦」を氏の名とする氏族である。 「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283)百済から日本に帰化した弓月(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半には盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられており、その出目は明らかでなく以下の諸説がある。
・ 秦人しんじんが朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫である。
新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した。
・ 新羅系渡来氏族。 聖徳太子に仕えた秦河勝はたのかわかつは新羅仏教系統を信奉し
たが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。
・ 百済系渡来氏族。 「弓月」の朝鮮語が百済の和訓である「くだら」と同音。
あることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。 また、「日本書紀」
弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝(古くからの
説を補強する。
・ 中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。 また、羌族がチベット・
マ語派に属するチベット系氏族であって。同言語においてハタは辺鄙の土地、
一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する
意味する。 同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することか
の都市」を指す。
・ 五胡十六国時代に氏族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説。
(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。 平安行は碁盤
の目のような十字路で構成されているたねに景教と関連がある、とも言われている。
2.秦始皇帝
古代日本に「秦王国」を築き上げた秦氏の人々は、秦氏族の遠祖を秦始皇帝としていた。 これを如実に示すのが、京都太秦うずまさに所在する広隆寺の『広隆寺由来記』であり、そこに収載されている「秦氏系図」には。始祖に秦始皇帝の名を記している。
秦は、中国の王朝。 紀元前778年の周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。 統一から滅亡までの期間(紀元前221年~紀元前206年の15年間)を秦朝、秦時代と呼ぶ。
紀元前900年頃に周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績をあげたので嬴えいの姓を賜り、太夫となり、領地を貰ったのが秦村(現在の張家川回族自治県)であったという。 五代襄公じょうこうは紀元前770年に周が西戒に追われ東遷した際に、周の平王を擁護した功で周の旧地である岐に封じられる。 これ以降諸侯の列にはいる、秦の初代である。 9代穆公は巧みな人使いと信義を守る姿勢で領土を広げ西戒の覇者となり、隣の大国晋にも匹敵する国力を付けた。
紀元前247年に政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋りょふいがにぎっていた。 紀元前241年、趙ちょう・楚そ・魏ぎ・韓かん・燕えんの五ヵ国連合軍が攻めて、きたがが、函谷関の戦いで撃退した。 紀元前238年に呂不韋が失脚して政が実験を掌握した。
政は、趙、楚、魏,韓、燕、斉を滅ぼし紀元前221年中国を統一した。 政は自ら皇帝を名乗った(皇帝を称する始まりで、始皇帝という。
始皇帝、嬴えい政せいは、天下を分けて36郡とし、度量衡・貨幣、文字を統一。国境に延長5000kmにおよぶ万里の長城を築き、在位37年、紀元前206年50歳で歿した。
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