泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのがそのはじまりとされている。 泰氏は山城国の葛野郡一帯を領し、太秦の地を本拠に勢力を拡大していった。 飛鳥時代、推古天皇の御世にあらわれた泰河勝(秦川勝)は、聖徳太子に仕えて朝廷内における秦氏の地位を向上させ、 京都・広隆寺を創建したことで知られている。
秦河勝は聖徳太子の信頼に応えて多大な功績をあげ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、秦河勝の長男秦広国を派遣して信濃国の統治にあたらせた。 以後、泰氏は信濃国に住して豪族に成長していく。 『更級郡誌』によれば、保元の乱に際して秦能俊が村上為弘、平正弘らと崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡したという。 阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久郡、更級郡、東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。
『元親記』には「秦川勝の末葉、土佐国司となり、長曽我部・江村・廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とある。 また、後三条天皇の延久年間(1069~1074年)に、秦能俊が信州から入部したとするものもある。 さらに、鎌倉時代初期に起った承久の乱に幕府方に属した秦能俊は京方の仁科氏と戦い、その功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説もある。 いずれにしても土佐に移った秦能俊は国分川沿いにある岡豊山に城を築き、代代の居城と定めた。 そして、鎌倉時代、江村氏、久礼田氏、広井氏、中島氏、野田氏、大黒氏、中野氏らの庶子家を分出。 長宗我部氏はこれらの庶子家を指揮下におき、惣領制のもと発展をしていった。甲浦惟宗氏、金剛界寺氏、瀬本氏、西和田氏、蒲原氏、益田氏、香川氏などにも分かれ、 長宗我部氏は津野氏、一條氏、吉良氏、香宗我部氏、島氏、戸波氏、比江山氏なども一族に引き入れるなど拡大していった。
https://koskan.nobody.jp/teki_nansin.html
秦氏は長宗我部氏のほか、惟宗氏の流れを汲む島津氏などにも分かれており、信濃国でも島津氏は長沼島津氏や赤沼島津氏に分かれて勢力を広げている。
https://koskan.nobody.jp/teki_nansin.html
0 件のコメント:
コメントを投稿