日本書紀の天武紀には「684(天武13)年、三野王(みのおう)を信濃に派遣、地図を作らせた。翌685年、朝臣(あそん)3人を信濃に派遣し、仮の宮を造らせた」とある。
また持統天皇は691年、使者を遣わし、信濃国の須波(すわ)、水内(みのち)などの神を祭らせた。この時「犀角笏奉納」と日本書紀引用の文献にあるという。
須波は諏訪の神、古代の水内は北信濃一帯のことだ。両天皇が信濃に関心を寄せたのは、道教思想による。中国の道教では、首都のほかに陪都(ばいと)=副首都を造るのを常とした。長安に対する洛陽の関係だ。
壬申の乱で政権を握った天武は、道教に通じていた。藤原宮(ふじわらのみや)を構想し、副首都として信濃を想定したという。
水内の神が戸隠の神だとすれば、象牙笏という貴重品が、戸隠神社にあるのも納得できる。
https://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0583.html
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