2023年11月15日水曜日

日本人の起源

1.人類の誕生

 人類の誕生は500万年前といわれる。 300万年前の有名なルーシーと呼ばれる完全な人類化石がエチオピアの大地溝帯(東アフリカ大陸を南北に縦断巨大な谷)で発見された。 いくつもの系統の人類が発生し、生存し、化石を残して滅んでいった。

 150万年前に東アフリカの大地溝帯で原人が誕生し、100~50万年前にアフリカを出て世界にひろがった。 ジャワ原人、北京原人。 である。 旧人とも呼ばれるネアンデルタール人がヨーロッパへ進出したのは、50万年前である。

 現代のホモ・サピエンス(新人)は20万年前にアフリカで誕生した。 初期人類は、必要とする日々のエネルギーを植物資源に依存していた。 必要とする。 エネルギーを日常的に動物資源から確保することは困難だった。 アフリカ地溝帯(エチオピア付近)を出た新人は、10万年前には、北上し、死海地溝帯にいた。 この地溝帯は食用植物の品種が豊富で、収穫シーズンが分散して年間を通じて食糧確保が可能だった。 この地で世代を重ね、進化し、石器などの道具を改良していった。 死海地溝帯から発掘された石器が10万年前のののである事より、拡散する前には死海地 溝にいたことがわかる。


2.モンゴロイドの移動(7万年前~2万年前)

 7~5万年前、地溝帯を出て東へ移動したグループは、インドを通り、スンダ大陸に渡った。 スンダ大陸は、氷河期で海面が下がったために、マレーシア、インドネシア、フィリピンが陸続きになって形作られた大陸で、赤道直下にあり、氷河期でも暖かく、雨もふり、四季を通じて食糧採取が可能な地域で、アジア人(モンゴロイド)揺籃の地となった。

 コーカソイドは、モンゴロイドよりやや遅れ4万年±2万年、ユーラシア大陸のイラン付近から中東・ヨーロッパに移動し、白人種の祖先そなった。 またクロマニョン人はコーカソイドの直接の祖先と考えれれている。 クロマニヨンは移動せずアフリカの地に留まり、黒人の祖先となった。

 5万年~4万5千年前に、一部のモンゴロイドが住んだな大陸からサフル大陸(ニューギニア、オーストラリア、タスアイダニアなどが地続きの大陸であった)に渡りアポリジニーとなった。 スンダ大陸とサフル大陸は陸続きになっていなかったため、船を使った渡海にお技術を、この時期の人達が既にもっていたことを示している。 このアボリジニーの免疫グロブリンG(Gm)の標識遺伝子調べた結果が、agとaxgの混合となっている。 したがって、最初にスンダ大陸に移住してきたのは、agとaxgの遺伝子をまった、2波の移住があったものと推察する。

 5~3万年前、アフリカ及び死海地溝帯から、更に移住の新しい波が、3次4次と続いたものと推察される。 スンダ大陸では、グロブリンGの標識遺伝子afb1b3とab3stを持つ人が移住、ag、axgの前2波ぼ人達とをあわせ初期モンゴロイドと仮に呼ぶ。 

 3万5千年~3万年前、グロブリンGの標識遺伝子agとaxg、afb1b3とab3stを持つ初期型モンゴロイドが北上を開始した。 北上開始の理由の1つは、マラリアなどの疫病と想定される。

 いくつかのグループに分かれ、時期を置いて、北上を開始し、当初は、食糧確保と寒さを避けるため、海岸線に沿って北上し、海面が下がっていたため陸化していた黄海を当時の海岸線に沿って北上し、シベリア大陸に向かう。 シベリア大陸へ向かった人々は、途中で、革新的な石器を開発した。 それは、素材の小型化・軽量化と槍先に装着すろ尖頭器せんとうきなど。 これにより、植物性食料を補う動物性食料の確保が可能となり、その毛皮を使い防寒具とした。 

 北上開始した中に、船と渡海技術をもったグループがあった。 そのグループは、台湾近辺を越えた処で、東の海の中に列島を発見し、移住した。 そこは、琉球・沖縄の諸島であった。

 約3万年前は海面が70m程さがっていたため、当時の琉球・沖縄は現在よりもかなり大きな陸地だった。 琉球・沖縄の古代人は、縄文期の海面上昇で、人口を激減させた」と懸念される。

 更に北上すると、より大きな島(九州)を発見した。 そのグループの大多数が移住。 九州から、四国、本州とわたり、北へ。

 津軽海峡は、氷河期も陸地化せず海峡のままだった。 グループの中で、船と渡海技術に「長けた少人数の人達が渡海し、北海道に渡った。 宗谷海峡と間宮海峡は、この時期には陸続きで、北海道から北東部まで、陸上を移動ができ、拡散していった、渡海せずに、北上を続けたグループは朝鮮半島付近を過ぎ、内陸へ入って行く。 食糧確保のため、大型哺乳類お捕食するために、狩りの道具に改良を加えて行き、石器の革新が行われた。 この革新的な石器の技術を生み出したことが、内陸への侵攻が可能となった。

 スンダ大陸では、グロブリンGの標識遺伝子afb1b3とab3stを持つ人達が。、ふるいagとaxgの人達を圧倒し、駆逐していった。 この圧倒・駆逐の主な要因は、熱帯性の病原菌に対する抵抗力の差であったと推察する(著者)。 

 シベリア大陸では、食料確保と防寒対策が出来たグループはシベリア各地へとひろがり、生活圏を拡大した。 しかし、2万年前、氷河期の寒気が一段と厳しさを増し、各地に広がっていた新人たちは、寒さと上で絶滅していった。 その中で、バイカル湖周辺は比較的暖かく、食料となる大型哺乳類・マンモスなどが多くせいぞんしたため、その周辺地域に集まった人達だけが、生き延びることができた。 


3.モンゴロイドの移動(2万年前~2千年年前)

 バイカル湖周辺で寒波に耐え、大型哺乳類を捕食する方法を確保し、北方民族となった人たちは、東西南北へ移動を開始した。 そして、北へ向かい東に転じたグループは、1万8千年前~1万年まえにベーリング海峡を越え、アメリカ大陸へ入った。 そして、北米でも南米でも生息していた大型哺乳類を食べつくし、絶滅させながら短期間で南米の先端にまで達した。 アメリカ大陸に入ったのは少数のグループでわたったものと言われている。 限られた通婚範囲の中で、遺伝子の多様性を失い、南米に至る人達は、古いagとaxg遺伝子に集約されていった。

 スンダ大陸で主役となった新しいモンゴロイド(afb1b3とab3stのグループ)は、温暖化に伴い北上を開始した。 インドシナ半島のタイ、ビルマ、ミヤンマー、ベトナム、カンボジアに広がり、更に大河を北上し、中国雲南に入った。 東側は中国の貴州、広州に広がり、さらに海岸沿いに北上した。 

 バイカル湖で寒波に耐えた初期型モンゴロイ後は、やや温暖化した2万年~1万年南下した。 その一つのグループは中国の西のチベットとブータンにおちついた。 やや遅れて移動開始したもう一つのグループは長江の中流域に達した。 このグループは稲作の栽培を開始した。 

 稲の栽培は何処で始まったか、諸説紛々であるが、現在は長江が発祥の地と確定されている(「寿司材・米」参照)。 稲作は、長江中流が最も古く、彭頭山ほうとうざん遺跡BC7000年~6000年。 次いで長江下流の河姆渡かぼと遺跡がBC5200年。 BC2100年になり、やっと、長江の上流や准河わいが、黄河こうが中流域に伝播した。

 中国では、新旧モンゴロイドが多様な民族に別れたまま、稲作技術を取得して、適地を求めてモザイク状に広がった。 残された適地が亡くなると、地域間の紛争が勃発した。 伝説に残される黄帝(BC2510~BC2448年)と三苗族の中国を南北に分ける大戦争の末に、三苗族はm敗退し、徹底的に撲滅され、中国史に禍根を残したという。 

 初期型モンゴロイドが主体となった長江文明は、その影響を強く黄河文明に与えた。 その中で、稲作と青銅・鉄器と船の技術を持つたグループが、ビルマ・ミヤンマーに移り、インドへ渡った。 インドからパキスタンで稲作を開始し、新たな文明を築いた。 ハラッパ・モヘンジョダロで有名なインダス文明(稲作文明であった)。 

 この文明は、ある時、徹底的に破壊された。 この破壊をもたらした侵略民族は、白人系(アーリア人)と考えられる。 白色で示されるfb1b3遺伝子は白人系を示す。

 難を逃れたドラヴィダ族はインド中央部から南部で、被圧迫民として現在にのこる。 タミル人はこのドラヴィダ族の構成部族である。

 3600年前、忽然とニューギニア島の北東に位置する島々に現れたラピタと呼ばれる集団がいる。 このラピタは極めて熟達した船舶の技術を持った航海者で、数百年間かけて、ニューカレドニア、フィジー、トンガ、サモアまでの広い海域に広がった。 この海域にラピタ人は約1000年間留まり、2000年前から新たな拡散を開始し、ポリネシア全体にひろかり、南米大陸に近いイースター島からハワイ諸島までひろがった。 忽然と現れたラピタ人→ポリネシア人は、言語的には、中国南部起源説がとかれている。


4、縄文人

 一時的に温暖化した3万年前に。モンゴロイドは、海岸線に沿って北上し、大陸中央のバイカル湖地方までにたっした。 その一部が、当時陸続きになっていた沖縄、日本列島を通り北上した。 その際、居住かのうな地域に一部の人を残した。 

 再び寒冷化し、最も厳し氷期を、生き延びることが出来たモンゴロイドは、優れた狩猟用石器や耐寒衣料を手にして、生き延びることができた地域は、比較的暖かい気温の恩恵を受けたバイカル湖のある地と、海岸に近く、比較的温暖なだけで、その他の管領地域は死に絶えたものと想像される。 日本列島で生き延びたのが縄文人(沖縄。アイヌ系)れあると思われる。


5.バイカル湖地方からの北方型モンゴロイドの移動

 生存に良好な地で発生したモンゴロイドが、北方に移動した所で、思いがけず極寒の気候に出会い、その環境に耐えるための技術を獲得し、同時に耐寒性の体系を獲得した。  温暖化の始まった紀元前18000年~15000年に、寒冷地仕様の体形になった北方型モンゴロイドは、優れた道具と技術を以て、食料となる大型動物を追って四方に移動を開始した。 

 ・  北方へ向かったモンゴロイドは、紀元前15000前~10000年前、ベーリング海峡を越えて

  アメリカ大陸へ、南下を続け、南北の最先端まで到達した。 

 ・  北方型モンゴロイドの中で、東に向かった一族は、サハリンから北海道へ

 ・  南に向かったモンゴロイドは、揚子江(長江)流域へ到達した。 

 モンゴロイドの発祥の地=スンダ大陸では、引き続き西方からの流入もあり、新しい南方型モンゴロイドが主流となる。 温暖化に伴い、南方型モンゴロイドは再び北上を開始した。 東南アジアの河川沿いにも北上し、多くの河川の源流となっている雲南の地に 移住した。

 長江中流へ移住した北方型モンゴロイドが、稲作耕作と帆船の技術を確立した。 稲作・米食が始まると、それ以前の疎らな人口とは比較にならない、極端に大きな人口密度となる。 人口を増やした北方型モンゴロイ路は、上流、下流へ拡散移住を行う。

 ・  長江下流から海岸沿いに北上し山東半島から現黄河流域へ広がる。

 ・  長江上流へ向かった北方型部族は四川省、雲南省へ。 雲南に北上した南方型モンゴ

  ロイドに稲作技術が伝播。

 ・一部は雲南からサルヴィン川(怒河)、メナム川沿に南下しビルマ・ミヤンマー、タ   イへ

 ・  一部は雲南から海岸沿いに西北に上がり、インド大陸へ移住しインダス文明を築いた。


6 弥生人(1)

 中国の「史記」に、秦の始皇帝(BC259~210年)に「東方の三神山に長生不老(不老長寿)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を以て、東方に船出し「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王とない戻らなかったとの記述がある。

 中国の古代、殷いん(商しょう)王朝(紀元前17世紀~紀元前1045年)から周王朝(紀元前1046年~紀元前256年)へ変わった時代に長江・准河わいがわ(長江の支流)の河口地域に居た稲作をベースとした民族が反乱の末、民族滅亡へ追いやられた。 滅亡を逃れたその一部が、稲作技術を以て、遼東半島を通り、韓国中部、南部を経て、北九州の玄界灘沿岸に移住した(2900年前から2400年前の期間)。 弥生時代の先駆けである。

 中国・周・戦国春秋の時代から秦が中国全土を統一した時に、滅亡の危機に直面していた、民族が、なぜか、秦の始皇帝の東方進出の一大プロジェクトに乗って、民族大移動を実行した。 近年の中国では、壮大な史実と認められ、日本では、曖昧模糊とした、徐福伝説としてかえりみられなかったが、この大移動の時期が、青銅器・鉄器・水田稲作が一気に日本全国に広がった弥生時代の始まりの時期に相応する(丸地三郎)。 しかし、この説では、日本語の起源の説明ができない。


7 弥生人(2)

 日本語とタミル語が同系であることが確認された。 しかし、これには7000kmも離れた南インドのタミル人が極東の日本まで本当に来たであろうかという疑問が当然生じるであろう。 これに対し大野晋氏はつぎの様に答えている。

(1)東南アジア各地の巨大文化

  マイソール大学のラマンナ博士に「南インドと東南アジアの巨石文化―その比較研究

  」(1983年)という著書がある。 その広まりの範囲は、インドシナ、マレーシア

 、ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ、ヒィリピン、台湾の及んでいる。 踏査項

 目は、支石墓、箱式石棺、石碑、石塚、石臼、甕棺、ロクロ、壺、グラフィティ、刻み

 目、鉄器、青銅器、ビーズ、貝輪、胸装いにわたる。

  これによって東南アジア各地の墓制が、南インドの巨石文化の墓制の特徴をおよそ伝

 えていることは知られるであろう。 

  ではどのようにしてこれらの文明の伝播、波及が行われたのか。 それは船による交

 通である。 今日では陸上の交通は安全であり、海上交通は危険が伴うと一般に信じら

 れている。 しかし古代では、むしろ陸上交通は道路が整備されずに困難であったのに

 対し、海上交通は天候さえよければ沿岸の航行は容易で、想像以上にン距離を航行して

 いた。


ここに橿原考古学研究所が所蔵する、奈良県天理市清水風遺跡出土の弥生中期の土器

 片がある。 それには片舷十八本のオールで漕いだ船の絵が描かれている。 それをも

 とに海洋学の権威茂在寅男教授の復元された図である。

  茂在教授はこれをエジプトのハトシップスト女王の墓に刻まれれあ船と比較している

 。 それには十五人漕ぎで、21.0メートルある。 またクフ王のピラミッドの前から実

 際に掘り出された船は長さ45メートル、、紀元前26世紀のものであると証明された。  弥生時代に描かれた舟の絵は数多くあり、茂在教授は古代の交通網はむしろ海路が中

 心であるという。 そして古代の船の大きさが想像を超えること、日本の弥生時代の巨

 大な船の実在の可能性が十分考えれることを指摘している。 現にローマ皇帝アントニ

 ヌスの使者は、紀元二世紀に南インドを経て中国の皇帝に親書をもたらした。 当時の

 東南アジア、西南太平洋の海上交通の盛んなさまを想像できる。

  ポリネシア人という、航海術に長じた民族がいた。 最後の氷河期であるヴュルム氷

 期は今から7万年前から1万3千年前頃まで続き、その間、海表面もかなり下がってい

 ました。 その結果、東南アジアのインドシナ半島やマレー半島からインドネシアのジ

 ャワ島、スマトラ島、ボルネオ島にかけての海域はスンダランドと名づけられた大きな

 陸地を形成していました。 また、オーストラリア大陸とニュウギニアの間も1つに繋

 がりサルフという名の大陸を形成しました。 

  やがて氷河期が終り、再び地球が温暖化すると、海面は上昇し、スンダランドの大部

 分はか海底に沈みました。 海洋交易を行っていた集団は急速に勢力が衰えましたが、

 その一方で長距離航海の技術を獲得した一部の集団はさらに南下し、陸地に定住する人

 々とは異なる風俗習慣を身に着けながら独自の文化を作り上げてきました。 この集団

 はインドネシアの島々を通過し、ニュウギニア島の北東アドミラルティ―諸島から、フ

 ィジー諸島、トンガのトンガタブ諸島、サモア諸島まで到達します。

  精巧な土器の模様など、この時代に開花した文化はラピタ文化と呼ばれメラネシアを

 中心に紀元前1300年から紀元前500年頃まで栄えたと言われています。 サモアに到達

 した人々は今日のポリネシア文化の基礎とも言える文化を創りあげました。

  彼らが再び東に移動を開始するのは 1世紀頃からです。 それは航海術が飛躍 的に

 進化したためです。

  それまでのカヌー航海は、目視できる島から島への移動が基本でした。 高度な技術

 などなくても移動は比較的簡単なもので、風や潮流に逆らって漕いだり、中距離の場合

 は、行きは海流にのり、帰りは順風に乗って戻るという方法であいた。 

  当時のカヌー製作は5000年以前に南アジアで発生した原型のカヌーと大きく異なりま

 せんでしたが、航海術は飛躍的に進化しました。 その一つは、造船の改良です。 彼

 らはカタマラン、ダブルカヌー、アウトリガーカヌーという船の改良し、積載量を増す

 ことに成功した。 カタマランは、2つの船体(ハル)を甲板で平行に繋いだ船、ダブ

 ルカヌーは、船体を二つ使用し大型のカヌーのこと。 二つの船体を通常クロスビーム

 を介して連結され、クロスビームの上にデッキがが装着されることもある。 アウトリ

 ガーカヌーは、安定性を増すために、カヌー本体の片脇または両脇にアウトリガーとも

 呼ばれる浮うきが張り出した形状をしている。

  もう一つは、風上に向かって進む「タッキング」という技術を習得したことです。 

 彼らが未知の世界を発見する可能性は飛躍的に高まったのでした。

  紀元前500年頃に北から到来した海洋民族はジフィーやサモア、トンガへ到来しまし

 たが、そこで1000年ほど停滞しています。 そこから先に島の情報がなく、海しか見

 えない未知の世界だったからでしょう。 

  3,4世紀頃までにはポリネシア全域、即ち、クック諸島、ソシエテ諸島、フェニッ

 クス諸島、ライン諸島、トゥブアイ諸島、トゥモトゥ諸島マルケサス諸島等に移住し

 た。


  カヌーの仕組みだけでなく、航海術を熟達させたポリネシア人たちは、マルケサス

 諸島付近に到達したあと、しばらくこの地域に停滞したと思われる。 マルケサスから

 最初のポリネシア集団がハワイに渡ったのは6世紀から7世紀の頃とされている。 彼

 らがマルケサス諸島にやってきてからハワイに移動するのに数百年の停滞期間があった

 。 それにはマルケサス諸島からハワイまでの距離3500kmはあまりにも遠すぎた。 

 しかし、そこまでの危険を顧みずなぜ移住したのだろう。

  ホノルルのハワイ・マリタイム。センターにはホクレア号という、全長19m、.3程の

 カヌーが展示されています。 これはかってポリネシア人が太平洋を航した時に使った

 であろう双胴のカヌーを復元したものです。 このように小さなヌーで何千キロとい距

 離を航海できるとは信じ難いのあったが。 ホクレア号最の実験航海ではハワイからタ

 ヒチまで1ヶ月と少しであったが、それと似たようものだったであろう。 

  6,7世紀に、ポリネシア人は、3500km離れた太平洋の1点に過ぎないハワイ1か

 月の日数をかけ正確に到着している。 ポリネシア人は高度な航海術を獲得ていたと推

 定される。

  日本の弥生時代(紀元前10世紀~紀元3世紀)には、ポリネシア人は目視でき島々

 はもちろんのこと、目視出来ない海の彼方にある島々に(ハワイを除く)自由にに航海

 していた。 この事を考えれば、弥生時代、南インドのタミル人が、が日本に来ること

 は不可能でなかったと言える。

(2)タミル人は日本にきたか。

  第二の質問、タミル人は日本に来たかに対し、大野氏は「来た」と答える。 

   青森県、岩手県北部、秋田県北部には、平内ヒラナイ、洞内ホラナイ、笹内サッサナイ

 、佐羽内サバナイ、佐比内サヒナイ、沢内サハナイ、田子内タコナイ、毛馬内ケマナイな

 どナイという地名が何百とある。 また今別イマベツ、原別ハラベツ、苫米地トマベツ、

 仁別ニベツ、波宇志別ハウシベツなどベツ・ベチという地名が数多くある。 ナイは小

 川という意味のアイヌ語。 ベツ・ベチも川という意味のアイヌ語である。 こうした

 ナイとベツのついた地名は北海道にも極めて多数ある。 だからナイとベツが北奥の青

 森、秋田の地名に多くあることは、そこにアイヌ人が住んでいた証拠とされている。 

  これは研究者の間には異存はない。 ところがこれと同じ趣きのことが、タミルと日

 本との間に存在する。 

  タミル語にはPulam(村・区域)という語があり、kuna pulam(東村)、kuta ulam(

 西村)ten pulam(南村)など広く使われれいた。 ところが、日本書記にフレという

 語があり、次の様に使われている。

  村ふれに長無く,邑に首なし、各封界を貪むさぼりて(景行記40年)

  村邑ふれを剥き掠かすむ(継体記8年3月)

  このfur-eは、タミル語のpul-amとまさしく対応する単語である。 このフレを村の

 意で使う地域が現代日本で一つだけある。 それは長崎県、壱岐の島である。

  壱岐には、東触フレ、西触フレ、北触フレ、南触フレ、前触フレ、後触ウシロフレ、仲

 触フレ、大久保触フレ、西戸触フレ、平触フレなどフレという地名が100例ある。 こ

 れは青森県などにおけるナイ・ベツがアイヌ人の居住の証拠とされているのと同じ考え

 方によって、壱岐にタミル人が住んでいたことの証拠とすることができよう。 現に壱

 の島には、弥生時代の巨大な遺構が次々に発見されている。 

  また、日本の方言の中にアッチャ(父)、アヤ(父)、ダンダ(父)、アーヤ(母)

 アッチャ(母)、アッパ(母)、アンマ(母)、アンマー(母)、アンニャ(兄)、ア

 ンネ(姉)ナドノ家族名称が各地にある。 これらすべてに対してタミル語にはぴ っ

 たりと対応する単語がある。

  ということは日本へタミルから、文明的な「物」がけが輸入されたのではなく、家族

 単位の移入が存在した結果であると思われる。 つまりタミル人は家族として日本にき

 て住んだし、集落を形成した地域もあると考えられる。

(3)タミルと日本との間に両者の言語の仲介地となるような場所があるか。

   タミル語又は日本語に近い言語がはなされている所があるか、については、今日のと

 ころ明らかでない。 しかし、実は朝鮮語がタミル語と約400という対応後をもつので

 ある。

  朝鮮語と南インドのドラヴィダ語との比較文法が、すでに1905年に、H・B・ハルバ

 ートという朝鮮学者によって書かれている。 しかし、その書物は言語学者に一顧もさ

 れずに打ち棄てるられていた。 その後、1990年、水原スウオン大学教授姜吉云カンギ

 ルウンが「古代史の比較言語学的研究」を発表した。 その中の「伽耶系語の分類比較

 研究」という部分で、そこには韓国語とドラヴィダ語との比較語彙1368語が含まれて

 いた。 それを一見すると、タミル語の誤りが点々とあり、単語の吟味もゆるいように

 見えたが、この研究は重要な内容を含むことが判明した。

  [1] この研究は、タミル語についても朝鮮語についても、語根の構造についての配慮

   がない。

  [2] 音素の対応について厳格な考慮がはらわれていない。 

  [3] 意味の対応についての吟味が大雑把である。

  [4] 単語の用法を文例をあげて説明する配慮がない。

  という弱点をもっている。 それにも拘わらず、この論文は決して無視できないもの

 である。 私(大野)の判断によれば、姜氏の挙げる単語な三割くらいは比較語彙とし

 て残すことができる。 それは約400語あり、日本語とタミルとの比較語彙よりわずか

 に少ない程度である。

  従来朝鮮語の系統研究は、ほとんどすべてがツングーす語、モンゴル語など大陸のア

 ルタイ語系統か、あるいはギリヤーク語などを目標として進められた。 しかし、どの

 言語との間にも正確、厳密な音韻の対応を示す比較語彙を多数提出することが出来ず、

 研究は止まっているようにみえる。 400語もの対応後を提出できる言語はまだない。

  すでにおこなった日本語とタミル語との単語比較にあたって私(大野)は、①第一子

 音、②母音、③第二子音(以上の3要素で語根の形が決まる)に加えて、④意味という

 四つの要素の対応が同時に成立することを持って、対応語とみなしてきた。 朝鮮語と

 ドラヴィダ語との比較も、これと同じ水準の厳密さが要求される。 そこで実際にこれ

 を実際に行ってみると、①③④の三要素は同時に整然と対応するものがある、しかし、

 ②の要素、母音に関しては、日本語とタミル語との間に示したほど整然たる結果を示す

 ことはかなり難しい。

  それは次のような理由による。

  ① 朝鮮語には古い資料が無い。 朝鮮語の音を表記するハングルが制定されたのは

   紀元1446年で、それ以前の朝鮮語の資料が極めてすくない。 これは言語比較に

   とって大きなふたんになる。

  ② 朝鮮語の母音体系

    朝鮮語は7個の母音の体形を持って居た。 ところがタミル語の母音はa,i,u,e,oの

   5個である。 仮にこの5個の母音体系を7個の母音体系で受け入れるとすれば、

   安定的な対応関係は成立しにくい。 その上。朝鮮語にはeの母音がない。 その

   結果、タミル語のeに対して様々な音を当てることになる。 

  そうした制約にもかかわらず、朝鮮語とタミル語・カンナダ語(ドラヴィダ語族)と

 比較すると、その間に約400語の対応語がある。

  さて、タルミ語など南インドの言語と、朝鮮語との同系説はなお言語学的な立証が困

 難であるとしても、朝鮮語と、タミル語・カンナダ語の間の文化語を含む単語の約400

 語の対応は確実である。 と言うことから、巨石時代の南インドと朝鮮との文化の関係

 は確かに存在したと考えられる。 つまり日本とタミルとの文明史的関係は、僅かな、

 孤立した関係でなく、朝鮮を含めた「三角関係」として成立したのである。


参考文献

*日本語の源流を求めて                著者 大野晋     発行所 株式会社岩波書店

*日本語の起源                             著者 大野晋    発行所 株式会社岩波書店

*日本人と日本語の起源               著者 安本美典  発行所 毎日新聞社

*DNAから導きだされた日本人の起源                   著者 丸地三郎 

*詩論;DNA-日本人の起源とモンゴロイド            著者 丸地三郎 

*カヌーと長距離航海                                                著者 近藤純夫


https://shujakunisiki.her.jp/m-38-2.html

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