原郷は古代加羅の国か
では秦氏は、いつ、どこからやってきたのだろうか。 『古事記』には次のような応神天皇の世の記事がある。
秦造の祖、漢直(あやのあたへ)の祖、また酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須須許理(すすこり)等、参渡り来つ。
また 『日本書紀』 にも次のように書かれている。
(応神天皇14年)是歳(ことし)、弓月君(ゆづきのきみ)、百済より来帰(もうけ)り。因りて奏(まう)して日(まう)さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)120県を領(ひき)ゐて帰化(まう)く。然れども新羅人の拒(ふせ)くに因りて、皆加羅国に留まれり」とまうす。ここに葛城襲津彦(かづらぎのそつひこ)を遺(つかわ)して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経(みとせふ)るまでに、襲津彦(そつびこ)来(まうこ)ず。
(応神天皇16年)8月に、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿繭(いくはのとだのすくね)を加羅に遺す。……弓月の人夫(たみ)を率(ゐ)て、襲津彦(そつびこ)と共に来り。
さらに古代の諸民族の系譜書である『新撰姓氏録』には、中国・朝鮮半島からの渡来人の後裔がまとめられた「諸蕃」の記事に、秦始皇の三世孫、孝武王より出づ。男、功満王、仲哀天皇の8年に来朝。男、融通王(一に弓月君と云ふ)、応神天皇14年に来朝。127県の百姓を率いて帰化し、金、銀、玉、吊等の物を献りき。仁徳天皇の御世に、127県の秦氏を以て、諸郡に分かち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢らしめたまひき。(左京、太秦公宿禰の条)とある。
これらから分かるように、5世紀前後の応神朝の時期に、百済から弓月君が多くの人夫とともに渡来したのが始まりとされている。ではなぜその頃に朝鮮半島から多くの人たちが渡って来たのだろうか。
朝鮮半島ではその頃、新羅と高句麗、百済と倭が入り乱れての戦乱が激化していた。それに加えて旱魃(かんばつ)や蝗害(こうがい)が相次ぎ、人々は生活に窮していた。そのため多数の人たちが、戦乱や飢饉を逃れて日本列島に渡来・移住してきたのである。
古代には、朝鮮半島の東南部地域は加羅(伽耶・加耶)と呼ばれていた。それは4〜6世紀にかけて朝鮮半島東南部の洛東江か蟾津江(ソムジンガン)の流域に分布した小国家群のことで、これらの国々は旱岐(かんき)とよばれる首長たちによって支配されていた。なかでも洛東江下流の金官国(金海)や、上流の大伽耶(高霊・こうれい)が有力であった。その金官国は任那(みまな)とも言われた。
任那とは、『日本書紀』では加羅諸国の総称として用いられる場合が多く、任那は天皇に朝貢する官家(みやけ)とされ、その支配と統治をしたのが史上名高い任那日本府(実際はない)である。なお官家とは、百済・新羅・任那・三韓・海西諸国・海北・渡などの朝鮮諸国を日本への朝貢国として表すための呼称である。
このように、加羅は当時の倭と関係の深かったことから、秦氏の原郷(語族の故郷、起源地)は朝鮮半島東南部の加羅(金海)ではないかと大和岩男は推定している。
では秦氏の名称の由来は何によるのだろうか。 大和岩雄は、秦氏のハタというのは、古代朝鮮語の「海」と、「多・大」という二つの言葉に由来するという。そして秦氏の原郷は、朝鮮半島東南部の加羅である。したがって、4世紀の後半から5世紀にかけて、海を渡って大集団で渡来した加羅の人たちのことを、総称して秦氏と呼んだと推定している。
それに対して加藤謙書は、秦氏の名称も、ヤマト政権に奉仕した職掌から考える必要があるという。秦氏は何よりも、養蚕・機織りを職掌としていたことに由来を求め、「秦」の字を宛てたことは、中華思想による中国への思いによると推定している。 私も大学での講義のとき、韓国からの留学生に、古代朝鮮語に由来する「ハタ(pata)」ではないかという話をしたところ、今でも海のことは「バク」というので、とても親しみの持てる説だといっていた。ヤマト政権の職掌との関連で考えるよりも、古代の海に思いを馳せるほうがロマンチシズムを感じることは確かだ。
豊前の秦王国
秦氏の原郷は、朝鮮半島東南部の加羅であり、四世紀の後半から五世紀にかけて、渡って大集団で渡来した加羅の人たちのことを、北九州に到来した秦氏といったのであった。そして北九州に到来した秦氏集団は、まず豊前の国に、海を総称して秦氏といったのであった。そして(今の福岡県南東部から大分県北部)、秦王国といわれる拠点を形成した。
中国の隋の正史である『隋書』の倭国伝に、興味深い記事がある。大業4(推古16、西暦608)年に揚帝が蓑世清(はいせいせい)を倭に派遣したときの順路を記したものである。
百済を度り、行きて竹島に至り、南に耽羅(たんら)国を望み、都斯麻(つしま)国を経て、遙かに大海の中に在り。東して一支国にいたり、又、竹斯国(ちくし)に至り、東して秦王国に至る。其の人華夏(かか)に同じ。以つて夷(い)洲と為すも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。又、十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭に附庸す。
ここに書かれている秦王国こそ、豊前(ぶぜん・福岡)一帯に秦氏が形成した根拠地である。そしてその風俗はほかの地域とは異なり、「華夏」と同じとあるが、これは朝鮮系の風俗を指していると思われる。
筑豊の地、今の福岡県田川郡に香春岳(かわらだけ)という山がある。周囲からはひときわ目立つ三つの峰があり、それぞれ一の岳、二の岳、三の岳と名づけられているが、一の岳の中腹から上は長年の採掘によって、すでになくなっている。余談であるが、地元の郷土史家二郎丸弘によれば炭坑節の「一山二山三山越え……」の歌詞は香春岳のことを指しているという。
この香春岳こそ、九州に渡来した秦氏の集団がまず目指した地であった。香春岳からは、さまざまの鉱物が採掘された。『豊前国風土記』逸文の香春郷に、次のような記述がある。
昔者、新羅の国の神、自ら度(わた)り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と日ふ。又、郷の北に峯あり。頂に沼あり。黄楊樹生ひ、兼、竜骨あり。第二の峯には銅、并に黄楊・竜骨あり。第三の峯には竜骨あり。
大和岩雄によればここに書かれている竜骨とは、石灰岩のことを指すという。つまり香春岳には、石灰岩や銅などの鉱物資源があったことが、古代にも知られていたのである。『日本鉱山総覧』によれば、香春岳(かわらだけ)からは、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄、石炭が採掘されたという。なお、実際に銅が採掘されたのは二の岳ではなく三の岳である。そこには採銅所という地名が残っていて、JRの駅もある。
鉱山の採掘や鍛冶は、秦氏のもつ先進技術の代表的なものだ。秦氏の原郷である洛東江流域は砂鉄の産出地である。『魏志』弁辰伝には、国、鉄を出す。韓、濊(わい)、倭みな従って之を取る。
とあり、この鉄を産出していた弁韓(べんかん)の人たちが、海を渡って九州に上陸し、まず目指したのが香春岳であり、その銅・鉄を採掘したのであろう。『古事記』や『日本書紀』に、天香山(あまのかぐやま)の鉄(金)を採って日矛(ひぼこ・御神体)や鏡を作ったという記述があるが、香春岳は秦王国の天香山なのであった。さらに鉱山採掘は、秦氏の財力の源泉になっていた。その財力を基にして、その後の古代日本に大きな役割を果たしたのである。
香春岳のふもとには香春神社がある。『豊前固風土記』逸文に「新羅の神」を「鹿春の神」と名づけたとあるように、ここは秦氏の信仰の拠点であった。
この香春神社は、宇佐八幡宮の元宮・古宮とも言われている。神官は、秦氏系の赤染氏と、鶴賀氏であるが、この鶴賀氏も若狭の敦賀との関連も考えられる渡来系の氏族である。祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのみこと)、忍骨命、豊比羊命の三座である。辛国息長姫(からくにおきながひめ)は、神功皇后の名である「息長帯姫」をヒントに作られた。「辛国」は「韓国」でぁり、息長姫の系譜は、新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を祖とし、息長(おきなが)氏は秦氏とも深く関わっている。朝鮮半島との関わりの探さを感じさせる祭神である。
豊前には、もうひとつ、宇佐八幡宮という秦氏の信仰の拠点がある。今でこそ皇室の庇護も篤く、日本の神社体系では枢要の位置を占める神社であるが、本来は渡来系の秦氏が祀っていた神社である。宇佐八幡宮の元宮が香春神社であるということは、そのひとつの証左である。
さらに宇佐八幡宮最大の祭事である放生会(ほうじょうえ)は、8世紀の養老年間に鎮圧した大隅・日向の隼人の霊を慰撫する祭礼である。かつては香春岳の銅で作られた神鏡を、宇佐の和間浜まで、豊前の国を巡行しながら十五日間かけて運ぶ神事があった。その間、八幡宮では細男舞(くわしおいのまい)が毎夜行なわれ、和間浜では古表(こひょう)神社と古要(こよう)神社の人々が傀儡舞(くぐつまい)をしたという。細男舞も傀儡舞も、いずれも秦氏の担った芸能である。
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