戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社です。
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇5年(紀元前210年)とも言われるが、縁起によれば飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされています。
また日本書紀の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとあります。
そして書紀には持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もあります。
その後平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めました。
当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多くありました。
戸隠山から高妻山に至るまでが戸隠曼陀羅として考えられ、高妻山の奥にある両界山付近までが修験の地でありました。
現在でも登山道各所に一不動、二釈迦、三文殊などと巡って行くようになっています。
戸隠山に向かって奥社参道左手が真言宗の、右手が天台宗の領域であったとされています。
両宗派間にはいさかいが絶えなかったが、ある時真言宗派の僧侶が天台宗の僧侶を襲ったが、逆に真言宗が戸隠の地を追われる結果となりました。
その後、廃仏毀釈によって全て神道に代わり現在に至っています。
戸隠修験の近年の状況ですが、修験者が使用した洞窟や岩屋である「三十三窟」が山の中腹に残っており、それぞれ「般若窟」「龍窟」といった名称も残ってます。
修験が絶えて久しいことなどから現在は道も定かではなく、それらへ辿り着くのは容易ではありません。しかし戸隠神社関係者などに詳しく研究している人がいるので案内も可能です。
それらの成果をまとめて出版された研究書などを参照してください。
戦国時代に北信濃地域は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信との争乱に巻き込まれました。
これによって善光寺の支配者でもあった栗田氏が分裂するなどし両軍によって絶えず危機に晒され、このため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期がありました。
川中島の戦い当時は、多くの修験者と信仰者集団を抱えていた戸隠神社や飯綱神社は武田、上杉両軍の双方にとってぜひ味方につけたい存在であり、修験者は広く各地の情報に通じ多くの人々を牽引し戦況を占い、何より薬草の知識は従軍医師としての期待が大きのです。
このため善光寺や、戸隠、飯綱を味方にするか敵に回すかは極めて重要であったため、これらをめぐって戦火に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返されているのだが意外に知られていません。
しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立しました。
同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。
明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となりました。
なお当時戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も伝わり祀られています。
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