佐原義連(さわら よしつら)は、平安時代末期の武将で、生年や没年は諸説あり不詳です。
父は、三浦党4代の衣笠城主・三浦義明であり、末子だった模様です。
兄弟に杉本義宗、三浦義澄、大多和義久、多々良義春、長井義季、杜重行。
姉妹に源義朝の側室、畠山重能の正室、金田頼次の正室、長江義景の正室がいます。
成人すると、相模・佐原城を与えられたため、佐原氏の祖となりました。
1180年8月、伊豆にいた源頼朝が挙兵した際には、兄・三浦義澄らと共に、源氏側となって戦っています。
衣笠城の戦いにて、佐原十郎義連は、三浦義澄とともに大手の木戸口を守備して奮戦しました。
1181年4月、佐原義連は、源頼朝の寝所を警護する11名の家子に、北条義時らと共に選ばれました。
1181年6月、源頼朝が三浦へと出かけた際に、三浦一族と上総広常が出迎えました。
この時、上総広常は、下馬の礼をとらなかったため、佐原義連が咎めたともされます。
酒宴の席では、上総広常と三浦一族の岡崎義実が、乱闘寸前の騒ぎになりましたが、このとき、佐原義連が仲裁して、その場を納めたと言います。
1182年8月、北条政子の安産祈願のために近国の十二社に派遣した使者に、佐原十郎義連が選ばれて参詣しました。
佐原義連の正室は、武田信光の娘で、妾もいたことでしょうが、子供は下記のとおり多かったようです。
佐原景連、佐原盛連、佐原家連、佐原重連、佐原胤連、佐原助連、佐原政連、佐原広連、佐原泰連。
平家討伐の際に、佐原義連(三浦十郎義連)は源義経の軍勢に属しており、一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」にて、最初に駆け下りた武勇が平家物語に記載されています。
その後、奥州征伐の際の軍功により、佐原義連は、陸奥国会津四郡の加増を受けたと考えられます。
1189年、佐原義連は、北条時房が元服した際の烏帽子親を務めています。
1192年、源頼朝上洛に従い、左衛門尉に任ぜられました。
また、関東御領・遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も兼務したようです。
没年には諸説あり、異本塔寺長帳によると建久3年(1192年)4月15日に75歳で死去。
葦名系図によると、建仁3年(1203年)5月17日に78歳で死去。
葦名家由緒考證では、承久3年(1221年)4月15日に82歳で死去とあります。
諸説あることは多いのですが、没年が、こんなに分かれているのも、あまり聞きません。
その後、佐原氏の家督が、どのようになったのか、不明瞭なところがあることからも、どうやら、家督相続がスムーズではなかったようで、直系を主張する一族に寄って、佐原義連の没年も、色々になってしまったとも推測できます。
佐原義連の子である佐原盛連(さはら もりつら)は、三浦義村の娘・矢部禅尼(やべぜんに) を正室に迎えてます。
そして、1247年、宝治合戦で、三浦本家が滅んだ際に、当然、佐原氏の一族もほとんど命を落としました。
しかし、矢部禅尼の子である蘆名光盛、佐原経連、比田広盛、藤倉盛義、猪苗代経連、三浦盛時、会津時連らは、執権・北条時頼に味方しました。
そのため、矢部禅尼の子である佐原氏は生き残り、三浦盛時が相模・三浦氏の嫡流として残った次第です。
その他の子供らは、会津に移ったものと考えられ、その佐原氏の直系筋となる蘆名氏は、会津・黒川城にて、戦国大名へと大きく発展していきました。
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