2023年11月30日木曜日

三穂太郎

 爰に美作国豊田の庄に、三穂太郎光佐と云人あり。

其先祖を尋ねるに、前伊豆守菅原秀治郎近衛院の勅勘を蒙り、此国に下り保師と名乗られける。
其子兄弟三人武勇を顕わし勝田郡五ケ庄を押領しけり。
二男治郎長次其子ヲ久常といふ。
其子を実兼といふ。
其子を近藤武者是宗ト云フ。
是宗文武両道にたつし、和歌のみちにもたつし、殊に双なき美男也、頃ハ弘長三年三月十八日菩提寺の観音へ参詣有しが、折しもサクラの盛にて花見の御遊を催しける。
近郷の老若男女へだてなく袖をつらねて並居たりける。
其中に年の頃二十ばかりの女凡人とも思はれぬ。
肌にはしらむく上には重あやを四季のもよふに染なし春もようようあけぼの染霞に匂ふ梅がゑに、初音を知らす鶯茶左右の袖ハ夏来にけらし白妙の卯の花色に、腰のもようは目にはさはやかに見えねども、あきの千種の花紅葉妻恋鹿もかわいらし、裾も浪速のあしの葉に積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に鴛鴦の浮寝のおもひはに思ひ染しよの心かや、いとたわやかな其の姿、腰ハ柳の春風にゆられゆられる風情して、露をふくめる海道(棠)のほころびかかる目元にて、かつらの眉すみほそほそと丹花口びるあざやかに、芙蓉のまなじりいとけだかき誰が袖ふれしかをりにて、心ときめくばかりなり。
近藤武者是宗ハ此姫を見るよりも情の心催して、飛び立つごとく思へども軽々敷言葉もかけがたく、見慮にながめ居たりが、懐中ヨリ短冊を取いだし、
一首の歌に云
春毎に見る花なれど今年より  咲きはじめたる心地こそすれ
と詠じ首を書て姫の側なる桜の枝に結び付さけ、片原なり寺へ行僧に長光坊といへる出家あり、物堅き成人なれば招き寄て、あれなる女を知り及ふやと尋るに、長光坊答て云様ハ、此程折々此寺へ参らるるといへども、何国いかなる人ともいまだ知り申さず、去ながら御用あらバ仰付られ候得といへば、夫ハ又近頃添仕合拙者今日見恋に心のもつれ解やらすさしもつれ、泪の川の渡しもり。と書いて渡し出家に似合ぬ事ながら宜敷はからいくれ、程能調ふ物ならば恩賞をへんとて頼ミ、又短冊に一首の歌を書て、枝高き花の梢も折バおれ及ばぬ恋もなるとこそきく。是を渡しけれバ長光坊頓て姫の元へ行、先刻此短冊を拾い見申所美敷手にて書かたれども。恋の歌内へ出家が持てハよろしからず差上げ申は、御手本に遊ばし候得と何気なく差いたしければ、姫は手に取つくづくと見て申されけるは、足ハ御出家にハ媒頼まれけるかな、か様の物貰ふ身にて非ず差返しければ。長光坊取あへず一首
いい捨る言の葉までハ情あれ 只いたずらにくちはつる身を
と詠じければ、姫は独言の様に申けるハ
心こそ心まよわす心なれ 心にこころ心ゆるすな
と書申ける。長光坊かへり此よしを語りければ又、
恋すれど人の心のとけぬには 結れながらかへる玉づさ
と書て、これを送り見候へと渡しければ、長光坊又姫の元へ行、差出しけれバ此度ハ得と見てまた返しの歌を美敷手にて書ける。
変るともぬし有人ハ觧ましき、結ぶ神のゆるしなければ
と書て渡し、はや日も夕暮になりけれバ何国ともなく帰りぬ。長光坊も返し歌ヲ受取てすごすごとかへりて、近藤武者に渡し、かく語りけれバ是宗大ニ悦ひ此上ハ宜敷頼むと申置、家来引ぐし立帰りけり。扨此後細々なる文を認め、折々此寺へ参るを待て長光坊が取次しける文の奥ニ
わりなしや嬉しきものなぐさまで 又一筆にそふおもいかな
あわれとも人の心のなさけあれな 数ならぬにはよらぬなげきを
又姫のかへし
哀とて人の心にゆるしあれ なかずならねともままならぬ身を
又是宗つかわしける文の奥に
海も浅し山も本をなし我恋を 何によそへて君にこたへん
又送る是宗の文の奥に
くれなひに泪の色のなり行を 幾しを迄も君にとはばや
又姫のかへし
一花に思ひ染めたる紅の 泪の色ハさめもこそすれ
近藤武者是宗ハ此外幾度となく年月を重ねて、よれつもつれつ六ツヶ敷色ニ口説の歌をかき、数限りなく送るといへども、逢べきかへしの筆づさみもなく心つよき返事ばかりにて、引事もたとへ事も情も心も盡果て、貴来る恋にやつれつつ、最早露の命の置くべきかたもなく、文も言葉もかかれぬゆへ集歌にてつかわしける。
する墨も落ちる泪にあらハれて 恋きたにもへもかれぬ
待詫て二とせ過る床の上 猶かわらぬハ泪なりけり
恋しきをいかがわすへきと思へども 身数ならず人はつれなし
胸はふし袖は清める関なれや 煙も波も立たぬ日ぞなし
永久しきは蔓を限りとかきつめて せきあへぬ物は泪なりけり
此歌をかいて遣しければ、姫も打觧たる躰にて返しにはんじ物をおくる。
如此のはんじ物、是宗つくづくと見てモのと書いて四ツあるは、しもの三ヶ月は弓張る月、刃の下に忍ぶとゆふ字なればしもの弓張月に忍ぶとハ二十三日の夜忍来るとの事なり。はんじおふせて思ひの煙むべに消、心のにごりすむうれし嬉しき、急ぎ菩提寺に行、観音のお影ならんと伏拝み、長光坊にも一礼なして、其後恩賞を与へんとせば、還俗して是宗の姫となり長光坊を其儘に、細川長光と名乗らせ武名顕わしたるは此僧の事なりとかや、則関本村長光の屋敷とて地名のみ残れり旧跡有、扨近藤武者是宗は二十三日の夕くれを、誠に千年を待心ちして程なく其夜に成ぬれば、はたして彼の女忍び来り、家来に案内あれバひそかに一間へ伴ひつつ、蜷子ヲ取揃へささのむささのふし間も、肩の情の新枕おふが別れの始めとて、ならひとはあさましき、其の夜の袖はぬれ衣、つらつら思ひし胸晴れて、嬉しきあまりに是宗一首
うれしきもつらきもおなじ泪にて おふ夜の袖ハなおぞかハかぬ
女とりあへず一首
仮初めのしののをささぬ一ふしに 寄かかりきと人に語るな
此時是宗尋ねけるハ、過しころ見染しより年月、文玉づさを通すといへども、何国如何なる人ともいまだしらず、斯情に預る上ハ如何なる人にもせよ苦からず、身の上を語り聞せ候へと問けるに、女申様ハ、わが身の事は儘ならぬ者なれば、有様物語り候へば、君の御為に宜しからず、去りながら深き御情に預る上ハ、つらつら何の仇には存じ申さず、是れよりハ此館へ忍び申すと、つきぬ言の内に寄るもふけ渡りて、鳥のこへしけば是宗一首の歌
契り来て逢はる夜半の程もなく あわれも知らぬ鳥のこへかな
女の読みけるハ
己が音につらき別れハ有とだに 思ひも知らで鳥の明らん
と読みてその夜ハ別れぬ。それより幾度なく忍び通い月日も重なりけるが、有夜女の物語りに、仮の契りも重ねて、懐 胎の身となりしとおぼへ候よし語りければ、近藤武者是宗悦びて、さもあらばいまよりは、わが館の妻と定めん、帰る事なく昼夜ともに此家に居なんとすすむれバ、我身事いわれ有身の悲しさ、さ様には成難し、しかし御子は産て後養育して成長なし候ハんと申帰りぬ。日行月来りて、すこやかなる男子生まれければ、名を太郎丸とつける。その後三才に成迄此母七日めの夜なくなく太郎丸を抱いて、是宗が館へかよいける。ある夜其子に添て残し置かへり遺す処の歌
逢初し嬉しき事の有りてまた ならひつらき別れ成けり
人ならず人たる人に人たらで 人たる人の親もやいうらん
身の上は浦島が子の玉手箱 明ていさそ反悔しかるらん
君が為かりの契りも不志明て 日影の花も顕れけり
恋しくバなぎの谷川住とみよ かわる姿も人目をゝなる
扨是宗ハ此歌を見て、扨こそ扨こそ年月馴し夫婦の中、よるの寝覚の睦言も、名所語らぬ一ッのふしぎ、斯事ハ今更に驚くべきにあらねども、今別れてとは残念や、百千万の心をこめし此歌ハ皆深き意あり、しりヘの一首 恋しくば名木の谷川住むとハ、奈義川に住物ならん。ここに大なるなん所あり。
此所へ来りなバ逢んとの事なりと案またしても、いかなる変化のものにもせょ、此子が為にも親子の別れ、我も名残を惜しまんと、かいかい敷も身こしらへ我が子を脊におひながら、只一人忍び出て奈義の裾野をたどりつつ、大成さして登り見れ其子細なかりけれバ、太郎丸が母恋し、太郎丸が母恋しと、そこよここよとかけまわり、大聲上て呼び叫ぶ。
片原なる大石に腰をかけて、しはし休らひ居る内に、不思議なるかな俄に秋雰立込て、いと物凄くさわがしく、やゝ有りてはれ行雰の下よりも、きのふの姿引替て頭は其儘ここに居て大蛇の形あらわれ、畝の山を八廻り、物すさましきその其の有りさま

関本村削弓之間に有りける八巻の左の左并ニ蛇淵のいわれ
附「大なるが野」
時に是宗言けるハ、扨々恐敷形を見せる物かな、今一度元の姿見せたまへと泪を流し申しける。
彼の大蛇答て曰、かかる恥敷身にして、仮にも君に情を受けたる事、定めて悪しとや思召さん、是が此の世の御暇乞、さらばさらばと名残おしやとばかりにて、名木川の滝壷へ飛入失にけり。
かへせ戻せと呼はれど、更に答もなかりけり。悲歎の涙に暮たりしが、我子共に此儘に、こがれしにせんよりハ、滝壷に身を沈めて逢て後溺死てなり共、せめてのはらいせせんものと、身の毛の逆立我子ヲ小脇にかいはさみ、なんなく彼滝の本へうかがい寄、水底白眠で居たりける。共時不思議や滝つぼの水中より青黄赤白紫の五ッの色のあざやかなる一ッの玉、逆巻水の勢に浮かび出たり。
夫と見るより太郎丸、あれよあれよと手招きす、ささゑさせんと取上渡せば夜の別れの其時より、是迄見ざりし笑かを悦ふ躰を感じ入。
扨ハ母が心をこめし此玉ハ、我子へたまもの賜りしか、此上恋ひ慕ふは未練の迷ひと漸々に、思ひ切飛が如くニ我が家をさして帰りけり。
蛇淵のいはれ此事なり。末の世の今に至りても、蛇淵に雨こい祈りけれバ三日の内に雨ふらずという事なし。又、能畝の山を大蛇八廻り巻たるいはれ有に依テ、共後此山を八巻とも言伝ふるなり。又太郎丸が授かりし玉、五ッの光を顕すヲ以テ五光の玉と号く。
則今菅家に代々傳りし名玉なり、太郎丸常に肌身を離さずして成長して、凡人ならず、飛行自在の通力叶ひ、妖術に等敷三穂太郎光佐とて、名を満天に輝かし、其身此国に居ながら京都禁中の守護をし、玄番頭の勅任を蒙り、三歩に行通ふに依て、三歩太郎とも申伝ふ、豊田修理進の娘を妻として、男子七人有り。
依テ菅家七流の祖といふなり。
嫡男有元太郎佐高、二男福元彦治部(郎?)佐長、三男原田彦三郎佐秀、四男広戸主馬之助近長、五男弓削蔵人頼光、六男垪加六郎定宗、七男菅田七郎年信、何れも秀でたる人々にて、武勇を顕し、威を国中に振ひ、皆それぞれ取領を得たり。
光佐ハ美作守りに任して、名木山の絶預近き所に城を築き、其屋敷跡有、東西二十五間、南北拾五間、西北東に堀有。
西の方に二十三間の馬場有、南の方に書院の跡有、両方長サ入間横六間里石有、此三穂太郎ハ齢かたぶく頃迄も、不老不死容体にして、智仁勇の武威有て、七珍万宝を集めて其身ヲ全して、いと栄花に暮らし肩を並る人もあらざりしが、爰に庄内西原村といふ所に、一族光奥と申人あり、光奥の娘に小菅戸姫として、容体古今無双の美女有ける。
三穂太郎栄耀のあまり、彼の女の元へ折々忍び通ける、又同じ村に頼光といふ人あり。
是も同く彼の女恋心を寄、忍び通ひける内、双方ねたみの心でき、有時三穂太郎が忍び入りしを知って、はき来りしぞうりに針をさし置ければ、光佐斯共知らずかへりさに、彼の針を足の裏に踏たて、此痛ミ頻りにして  種々療治を尽くすといえ共身体大きに悩乱して、変化三体を顕し、五色の息を吹出し、庄内近郷迄四五里四方雲霞満たる如くに成りけり。
うなりける聲震動雷に異ならず、暗き事三日三夜にして名義山を枕として其身ハ豊田の庄内に倒れ臥す。
此時所々に大岩崩れ飛去り、石なき所に大石居り、山なき所に小山でき、久保なき所に久保できて、跡岩跡田跡久保跡石杯いい伝る所数をしらず程ありける。
三穂太郎光佐倒伏し、其死肉悉く腐りて墨となりぬ。
何国にても黒ぼこという土ありといえ共、此庄内に限り誠に黒き事摺墨の如くなり色の浅深あり又頼光其時微塵に砕て死にたりけり。
小菅戸姫ハ其後二人の菩提を弔らハんと尼と成山寺を建て、朝夕経念を唱へて住むゆへに、西原村に小菅戸屋敷あり、又頼光光奥様といへる地名今に残れり。
其後貴賎共に三穂太郎の亡霊を尊敬して、名義山細尾の絶頂に神殿を建立して、奈義大明神と敬ひ奉りけり。
後世に升形といふハ此宮地なり。是を勧請して関本村に、三穂大明神、又西原村に荒関大明神、沢村広岡村に杉大明神、高殿に御崎大明神、豊田の庄五ヶ村の神殿是なり、又三穂の字説多し山褒三保三歩三宝三穂杯申、正慶二年四月三日に美作国三穂太郎光佐の子孫其外一族三百餘騎、官軍に属して京都四条猪熊迄攻入、武田兵庫之助糟谷高橋が一千余騎の勢と時移る迄相戦ひて、有元四郎佐廣、同五郎佐光惣兵衛佐吉、福光彦治部佐長、原田彦三郎佐秀、広戸掃部之助家奥、弓削蔵人頼元、垪和六郎定宗、菅田七郎佐李、皆木佐京大夫長保、豊田修理之助為次、植月彦五郎重佐、梶並二郎三郎頼俊、大町主馬之助重遠、小坂六郎衛門保友、戸国八三五郎教保、森安三郎吉光、野々上兵衛盛行、多坂孫三郎久保、右手治郎通奥、江見四郎元盛、粟井三太夫盛次、松岡治部之助種孫、揚浅五郎成安、須江小五郎行重、和田又三郎爲元とか、菅原家の一族二十四名、二十六騎の人と能敵に馳合ニし皆々差遣て討死ヲぞしたりけり。前代未聞の忠戦とかんぜぬ人こそなかりけり。
終二官軍勝利を得たまひて京都六波羅伸時尊時、鎌倉の執権相模守高時、長門の探題、其外諸国一家北条従類脊属残らず折亡したまひて、公家一流の御代となりぬれば、戦功の人々の兄弟子孫に至る迄皆夫々に恩賞ヲ蒙りけり。
美作国菅家の来歴依テ斯之通り末世に書残しけり。
 三穂太郎記終 此本何方へ御取替候共 又かし無用

https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

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