所 在 地 京都市右京区太秦うずまさ蜂岡はちおか町32
宗派山号 真言宗系単立。 山号;蜂岡山。 開基;秦はた河勝かわかつⅠ歴史
仏教が正式に日本に伝わったのは欽明天皇13年(552)10月、百済の王、聖明王が仏像経論を我が天皇に献上したときからである。 時あたかも氏族の跋扈すろ時代で、神道一辺倒の神別と進歩的な皇別が仏教の採否について争った。
平安時代初期に書かれた「新撰姓氏録」では、姓氏を、皇別、神別、諸蕃の3つに分別している。 皇別こうべつは、皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す、神別しんべつは、日本神話に現れた諸神の後裔、諸蕃は、朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫である。
このようにして神別の代表者たる物部氏と皇別の代表者たる蘇我氏(孝元こうげん天皇の曾孫武内宿祢の後裔)との間で争いが起こり、587年丁未ていびの変で廃仏論者の物部守屋が討滅された。 先の仏教公伝の35年後であった。 これより先用明天皇は、神道を学ぶと同時に仏法も信じられ、仏教は一歩一歩とその伝播の基礎が築かれた。 用明天皇の第二皇子・厩戸豊聡耳うまやどとよとみみ皇子、すなわち聖徳太子(母;穴穂間人皇女)の出生に及んでにわかに仏法興隆に向かうこととなった。
太子が三十三代推古天皇の摂政官の大任を負った時は20歳の若さであった。 国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を取入れて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。 また、仏教を厚く信仰し興隆に努めた。 ことに仏教に帰依して三経義疏(聖徳太子によって著されたとする「法華義疏」「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」の総称である。 それぞれ「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の三経の注釈書である。)を製し、民心の統一を計られた功績は以外で、我が国仏教の創祖とあがめられている。 太子が三宝興隆のために日本に建てた寺は四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、法起寺、葛木寺をもって太子建立の七大寺という。
https://shujakunisiki.her.jp/m-39.html
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