2023年11月15日水曜日

巫医

 古代社会において、鍛冶師はシャーマンでもあった。秦氏は、道教的要素を持つ独特の巫術を駆使する集団でもあった。『新撰姓氏録』 に次の記事がある。

雄略天皇御鉢不予みたまふ。因(よ)りて茲(ここ)に、筑紫の豊国の奇巫(くしかんなぎ)を召し上げたまひて、真椋をして巫を率て仕へ奉らしめたまひき。

 『日本書紀』にも、用明天皇が病気になったときに、都の法師ではなく、わざわざ豊前(ぶぜん)の奇巫を呼んだという記述がある。このように、豊前の秦王国のシャーマンは、朝鮮系の巫術を用いる巫医として、遠く大和の地にまで名を響かせていたことが分かる。

もうひとつ、秦王国には、仏教公伝以前から仏教が入っていた。大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教であるが、秦王国に入った仏教は、弥勤信仰を重視する新羅の仏教だった。後に秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像である。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系であり、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立している。

また宇佐から瀬戸内海に突き出ている国東半島は、後に修験道が盛んになるが、数多くの天台寺院があり、中世に仏教文化が栄えた地である。沖合いの姫島も含めて、渡来系の文化が深く根付いている地域だ。

 このように、朝鮮半島の動乱によって日本に渡ってきた秦氏の一族は、九州の豊前に、一大王国をつくり、古代日本にも大きな影響を与えていた。その後、富と人的ネットワークを形成した後、秦氏はいよいよ東へと豊後水道を越えていくのである。


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