2014年12月8日月曜日


米沢の宿で吉田松 陰は米沢藩士高橋玄益が持参した米沢藩校、興譲館の教科書を見て驚いた。世の藩校における難しい漢文調で観念的、道徳的な教科書ではない。百姓、商人、武 士の役割、果すべき義務、農業の実務、農業土木、治水の仕組みなどが平易に分かりやすく書かれている。本の教えだけではない。米沢では武士といえども農業 の実務をこなし、女性も作業を実践している。これは直江兼続、上杉鷹山以来の伝統である。(本ブログ中の直江兼続および上杉鷹山参照)22才の青年吉田松 陰は感動し、目を開いた。教育とは本を読むことだけではない、武士は搾取者であってはならない、書物を学び、そのうえで実際に行動しなければならない。 1852年3月、吉田松陰が飛躍するきっかけとなった米沢訪問であった。

 吉田松陰は脱藩して、同士宮部県造とともに会津、新潟、秋田、青森、仙台とまわった 後、米沢の旧知の高橋玄益を訪問した。当時、北からロシア船が蝦夷に迫っており、吉田松陰は北方の様子を実際に確かめるとともに、各地の人材と会い、自分 を磨こうとしての大旅行であった。5ヶ月の吉田松陰の東北周遊は日本の歴史を変える契機となるものであった。


 吉田松陰は長州、萩で松下村塾を開く。そこでは身分を問わず、有為な人材を集め、 ともに学び、働いた。誤解されがちだが、吉田松陰はそこでは政治的な煽動を行ったわけではない。歴史、地理、なかでも農学を重点的に教えるとともに弟子達 とともに屋外で農作業に汗を流した。 松蔭は、「学問とは人間とは何かを学ぶことである」、「学者になってはいけない。 実行しなければならない」と説いた。日本の歴史を教え、農業生産の実践を進めるうちに、松蔭の人間的魅力と相俟って、有能な弟子達のうちに自然に現状打 破、国力充実、体制革新の機運が生まれていったのであろう。
このような日本を動かした吉田松陰の教育の原点が米沢にあったのは興味深いことである。


[出典]
http://yaplog.jp/rekishi-houko/4

 

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