2014年12月18日木曜日


和田 ワダ 綿(わた)・和田(わた)は、海(ばた、はた)の転訛にて、海(あま)族居住地を称す。ベトナムから中国雲南省附近に居た海洋民は黒潮暖流に乗って沖縄・九州・太平洋岸へ、また中国沿岸部や朝鮮半島・日本海岸へ土着した。海洋民のことはウツミ・コシ・斎藤・鈴木・秦・渡辺等参照。先代旧事本紀巻一陰陽本紀に「伊弉諾、伊弉冉の二尊、海神(わたつみのかみ)を生む。名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)」とあり。大綿津見神の子宇津志日金折命は別名穂高見命とも云い、安曇族の祖神なり。此の海神は慶尚南道釜山港附近にあった委陀(わだ)・和多から渡来す。金官・須奈羅は今の金海。背伐(はいばつ)・費智(ほっち)・発鬼(ほっき)は今の熊川。安多(あた)・多多羅(たたら)は今の多大で、四村(村は今日の郡程度)は対馬海峡・朝鮮海峡に面した南加羅の地である。日本書紀継体天皇二十三年条に「新羅は四村を攻略す、金官・背伐・安多・委陀、是を四村とす。一本に云はく、多多羅・須奈羅・和多・費智を四村とするなりといふ」。敏達天皇四年条に「新羅は、多多羅・須奈羅・和陀・発鬼、四村の調を進る」と見ゆ。南加羅の和多村の渡来人集落を和田と称す。○男衾郡折原村字和田及び立原村字和田(寄居町)は古の村名にて、今の寄居運動公園附近なり。鉢形古城跡内郭案内記に「武州鉢形の古城跡追手は立原村也、続て諏訪の神社あり、此社の南堀の上に御金倉と言所有是なり、北の方は和田村なり鉢形へ通る小路あり、和田坂の東に巻渕あり」と。鎌倉浄光明寺嘉慶三年文書に浄光明寺領武蔵国男衾郡内和田郷事、応永二十七年文書に武蔵国男衾郡内和田郷、享徳二年文書に武蔵国男衾郡和田郷と見ゆ。和名抄の男衾郡幡郷の地か。○秩父郡下飯田村字和田(小鹿野町)は、平村慈光寺元禄八年棟札に「和田村、飯田村、須々木村」と見ゆ。元応二年丹党中村文書に「秩父郡三山郷小鹿野の和田の屋敷一所」と見ゆ。下飯田村は小鹿野村より分村す。○那賀郡中沢郷駒衣村字和田(美里町)は、丹波国中沢文書に「明徳元年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道在家・同田一町・同名々寺の事」。「永正四年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道有宗同田一町の事」と見ゆ。○高麗郡脚折村字和田(鶴ヶ島市)は古の村名にて、天正二年白鬚社棟札に「白鬚大明神七ヶ村惣社、臑折、太田ヶ谷、針宮、和田、高倉、大六道、小六道」と見ゆ。○大里郡和田村(熊谷市)、入間郡入西領和田村(坂戸市)、越生郷和田村(越生町)、埼玉郡和田村(行田市)あり。○小名和田は、葛飾郡神間村、埼玉郡久喜町、足立郡大牧村、入間郡上谷村、高倉村、二本木村、下安松村、高麗郡平沢村、栗坪村、高倉村、比企郡玉川郷、上古寺村、横見郡御所村、幡羅郡弥藤吾村、秩父郡久長村、河原沢村、下吉田村、長留村、日尾村、日野村、薄村、横瀬村、中野上村、下名栗村等にあり。また、葛飾郡花和田村、宇和田村、足立郡大和田村、新座郡大和田町、入間郡箕和田村、横見郡大和田村、児玉郡沼和田村等あり。此氏は海岸部の常陸国、海神安曇族の渡来地信濃国に多く存す。○群馬県碓氷郡松井田町四十二戸、桐生市百三十戸。○栃木県安蘇郡田沼町三十戸、足利市百十戸。○茨城県久慈郡金砂郷町七十三戸、水府村八十五戸、那珂郡那珂町四十六戸、大宮町七十二戸、東茨城郡神栖町三十八戸、猿島郡猿島町四十三戸、日立市二百戸、常陸太田市百戸、水戸市百四十戸。○千葉県安房郡千倉町三十八戸、市原市百十戸。○長野県上水内郡豊野町三十五戸、小川村五十四戸、鬼無里村七十二戸、戸隠村百三十戸、中条村三十二戸、更埴市九十四戸、上田市百三十戸、松本市百戸。○新潟県西蒲原郡分水町四十二戸、三島郡寺泊町六十七戸、北魚沼郡広神村三十五戸、小千谷市三百五十戸。○福島県いわき市百四十戸。○山形県東置賜郡川西町三十戸、西村山郡河北町六十戸。○秋田県仙北郡協和町四十三戸、鹿角郡小坂町五十戸。○青森県三戸郡五戸町四十三戸、上北郡上北町百七十戸、七戸町五十戸、青森市三百四十戸。○島根県簸川郡佐田町七十戸、多伎町三十戸、松江市百八十戸、大田市百九十戸、江津市百戸あり。

[出典]
http://homepage1.nifty.com/joichi/4-6yu.html

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