九州の守護大名
九
州社会は鎌倉時代にはいって大きな変化をみせる。それは南北朝から戦国時代をへて江戸時代初期にいたる武士階級の興亡の序幕であった。関東や近畿に争乱が
おこると、それは九州にいちはやく波及し、西国にのがれた武士もそれにくわわって、九州社会の情勢は一段と複雑さをますことになったのである。
源頼朝は文治元(一一八五)年に九州に鎮西奉行をおいておさめさせたが、建久六(一一九五)年、その鎮西奉
行天野遠景が宇佐宮領にじぶんの家来をいれて非行をはたらいたというかどで職をやめさせられた。かわって藤原親能が鎮西守護に任ぜられて太宰府にくだり、
太宰府は守護所とよはれることになった。
当時九州には、各地にもともとからの土豪が数多くいてたがいに勢力をはっていた。これを鎌倉幕府の御家人と
することは、幕府にとってもたいせつな仕事であった。頼朝はこれら在地の有力武士の本領を守ってやったり、または地頭に任命することで、御家人にくりいれ
ていったのであるが、さらにこれらの小地頭の上に惣地頭を任命して、その統率にあたらせた。
それと同時に、武藤資頼を豊前、筑前、肥前三カ国の守護に、大友能直を豊後、筑後、肥後三カ国の守護に、島津忠久を
薩摩、大隅、日向三カ国の守護に任命した。武藤氏、大友氏、島津氏ほいずれも関東の武士で、その子孫は、こののちながく九州の守護大名として勢いをふるっ
た。とくに武藤資頼は、筑前など三カ国の守護に任ぜられるとさきの鎮西守護藤原親能に代って鎮西守護となり、太宰府内山城に居をかまえ、大牢府の政庁をそ
の役所とし、大宰少弐に任ぜられ、公武の職をかねて九州を統治した。彼の子孫もまたこれを世襲したので、ついにその官名小弐が氏名となった。公家の役人に
よって占められた大宰府は、武家である武藤氏の下で政務をとりおこなうこととなったが、大友、島津両氏も少弐とならんで九州を三分する形をしめした。けれ
ども十三世紀鎌倉時代の初めころは、在地の武士たちの勢力はつよく、これら関東からくだってきた守護の命令には、かならずしも服従しなかった。このころ九
州の地は、庄園となっているところが多く、近衛家領である島津庄をはじめとして、京都の皇室や権力のある家を本所領家とする庄園がいたるところにたてられ
たほか、豊前の八幡宇佐宮、太宰府の安楽寺などが九州全土にひろく庄園をもっていた。太宰府の安楽寺は今日の太宰府神社であり、延喜三(九〇三)年、大宰
権帥として太宰府に配流されてこの地で亡くなった菅原道真の廟所である。道真の死後間もなく、彼が無失の罪を負わされたというわけで、人々の尊敬をあつ
め、天満天神としてまつられたが、道真が詩文にすぐれていたところから、文学の神としてあがめられた。大宰権帥となってくだった大江匡房も安楽寺廟でしば
しば文学のあつまりをもよおして、道真の霊をなぐさめ、代々の大宰帥や大宰大弐は仏会、宴会をはじめて、その費用として寄進した庄園は、筑前、筑後、肥
前、薩摩などにひろく分布し、この庄園を通じて天満信仰がひろまることともなった。八幡宇佐宮は、奈良大仏を作るのにその金銅が不足したとき、国内に金や
銅の産出を予言する神託をおこない、それによって大仏が完成したという事件や、和気清麻呂が弓削道鏡をのぞくために勅使として神託をぅかがったという事件
のために、国家の神としてあつい信仰をうけることになった.そしてのちには九州第一の宗廟として古くから豊前、豊後、肥前、日向、薩摩などに一万町歩にあ
まる庄園をもっていた。これらの庄園には、千教百町歩から数十町歩におよぷ大名主がおり、有力な土豪として庄園の庄官またほ国衝の役人となっていて、かな
らずしも武家の命令忙したがうものはかりでほなかった。
[出典]
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/KyuHitobito.html#anchor1024270
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