2014年12月16日火曜日
文献(新しなの地名考)によると
「豊野町を中心とする地域を奈良・平安時代ころ(律令時代)には大田郷といい、中世には太田庄といった。奈良の正倉院には、天平勝宝二年(750)にこの 郷から納めた芥子(からし)の袋が現存している。また、太田庄に関する史料はかなりたくさん残っていて、信濃の荘園のなかでも、史料のもっとも豊富な荘園 といえるだろう。・・・省略・・・太田というのは田の美称で、鎌倉時代には田の台帳を大田文といった。しかし、いま、豊野町には太田という集落はないが、 豊野町南郷から長野市赤沼・津野にかけて太田という地名が残っている。このように古く開けた土地だから、いわゆる条里制的地割りといわれるよく耕地整理さ れた田が残っており、石村区有文書にはそれをよく示す地図があるが、南郷の上之丁(かみのちょう)、中之丁、下之丁、石村の立配(たてはい)、大配(たい はい)、苗間配などという地名は、そのような条里制の田についた地名だろう。」と記述。
他の文献(地名を歩く)にも「備後国大田庄(びんごのくにおおたのしょう)は日本を代表する中世荘園である。現在の広島県世羅(せら)郡を中心とする、中国山地の山懐に抱かれた広大な領域であった。」とありますから、大田は荘園に関係が深い地名なのかもしれません。
この中にでてくる大田文とは?。
百科事典ウィキペディアによると「大田文(おおたぶみ)は、鎌倉時代を中心に、各国ごとに作成された土地台帳。田畑面積や領有関係などが記録されている。守護や国司が国衙に命じて作成させ、国ごとに税を賦課する基準として室町時代頃まで重要視された。」と記述。
いまで言えば固定資産税台帳の名寄帳(なよせちょう)に似ています。
今も昔も基本的な制度は一緒ということでしょうか。不思議なものです。
引用参考文献:信濃毎日新聞社編「新しなの地名考」信濃毎日新聞社、服部英雄編「別冊歴史読本 地名を歩く」新人物往来社、豊野町誌
[出典]
http://www.naito-kantei.jp/blog/page.php?_id=282
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