2014年12月15日月曜日

諏訪族


諏訪族とは
「神長官守矢資料館のしおり」には、以下のような記述がある。
出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取っ て迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島 明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいます し、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。
一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私 でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。 口碑によりますと、そのころ、稲作以 前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそう です。
さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作 以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではあり ませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長 (のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
大祝は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、また、即位にあたっての神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり神に願い事をする力は神長のみが持つとされており、こうしたことよりみまして、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ち続けたと考えられます。
こうして、諏訪の地には、大祝と神長による新しい体制が固まりました。こうした信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代、中世と続きました。
これによると、建御名方命がやってくる前の諏訪地方は、縄文人の集合体のようなものがあったことが分かる。また、神社伝承によると建御名方命は饒 速日尊・事代主命と行動を共にしており、周辺を統一した後、諏訪には最後にやってきている事が分かる。諏訪湖周辺で洩矢神と争っているが、他の長者とは 争っていない。また、争いの後、洩矢神の子孫を重く用いていることから、この戦いは殲滅戦とか相手を滅ぼすとかいった類の戦いではないと考えられる。饒速 日尊の統一の手法と考え併せると、次のような手法が考えられる。
建御名方命は饒速日尊・事代主命を伴っている。これは、二宮の弥彦神社の伝承でも明らかである。当時の信濃国は諏訪に縄文人の国のようなものがで きていて、他の地域のようにあっさりと統一するのは難しい状況であった。そのため、信濃国内の未開の地を開発しながら周辺の縄文人から協力を取り付けた。 縄文の血を引いている建御名方命が率先してこれに当たったのであろう。周辺が統一されてから、建御名方命は統一が難しいと思われる諏訪周辺にやってきた。 いきなり土地を奪う戦いをしたのではなく、それぞれの地域の長者たちに日本国に加盟するように交渉したと思われる。その結果、蟹河原の長者、佐久良の長 者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などは、日本国加盟を申し出たのであろう。洩矢神は日本国加盟に反対し、交渉が決裂し て争いになったと思われる。
諏訪大社には「事代主命社祭」というのがある。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」と言われており、 これは、諏訪明神以前の土着の神を祀る神事が今に続いている事を意味している。この神社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では「武居會美 酒」とあり、事代主命と同神と言われている「えびす」である。兵庫県の西宮神社の摂社に「百太夫神社」があり、そこでは、恵比寿様は 「長野県の武居神社」で生まれたとあり、事代主命と武居の長者が一体化しており、事代主命が武居一族の協力を取り入れることに成功したことを意味している のではないだろうか。  諏訪での交渉
諏訪湖周辺には国を形成できるような組織をもった集団がいた。未開の地であれば、簡単に開発できるが、国があればそこの人々に日本国に加盟しても らう交渉をしなければならない。信濃国は広いが未開の地が多かったので、ここまでは順調に進んだが、この諏訪族だけは難局が予想された。上田市から依田川 に沿って遡り、旧中山道に沿って諏訪湖湖岸に達した。ここで、日本国に加盟するように交渉したが、上手くいかなかった。
諏訪大社下社に事代主命が祭られている。また、事代主命社祭があること、武居會美酒と言うように武居と事代主命が一体化している様子も見られることから、諏訪にて諏訪族と交渉したのは事代主命のようである。おそらく下社の地で交渉したのであろう。
しかし、伝承では諏訪湖の西に直線8km程の所にある信濃国二宮である小野神社・矢彦神社の地から諏訪へ行ったようである。方向性が逆である。ま た、諏訪湖を水源とする天竜川の下流領域が饒速日尊・事代主命・建御名方命によって開発されている。このことは辰野町の三輪神社、飯田市の大宮諏訪神社の 伝承でもわかる。
饒速日尊・建御名方命は諏訪族との交渉を事代主命に任せ、天竜川流域の開発に携わったものであろう。信濃国は大変広く、このあたりまでくると、土 地に住み着いて土地開発を継続して行う人材がいなくなってしまった。そこで、饒速日尊は神坂峠を越えて、尾張国に高皇産霊神の子である思兼命を代表とする 一族を信濃国飯田市近辺に呼び込んだのではないか。是が後の阿智族である。阿智族の協力のもと天竜川流域が開発されることになった。 

[出典]
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den107.htm

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