2014年12月15日月曜日
徐福の子孫―秦氏
■秦氏
徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、
1 松尾大社
2 伏見稲荷大社
3 木嶋坐天照御魂神社
松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、 この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えて いる。他に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰 澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏 は饒速日尊を強く祭祀していることが分かる。
秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島 へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の「避」に ちなんだ社号だといわれている。
さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすること になった。
しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒 菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の 赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。
秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書 『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速 日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べてい る。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。
これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。 そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世 平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14 世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代 である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた 人々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろ うか、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量 移民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられ る。そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇 帝の子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。
魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅 ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられ る。また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。
徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。そのた め、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王という のも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性 は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾 は一つを残してすべて解決するのである。
最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とはどういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫で あれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもな いのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、 このようになることが考えられる。
饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時 に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒 速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分 布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。ま た、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大変深い関係にあることになる。このことから、秦忌寸の先祖はこの高皇産霊神 と考えるのが最も自然となる。
秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したの が 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一 人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていた ようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂 氏の分派と言うことになる。
[出典]
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den107.htm
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