越前家
島津 忠宗(しまづ ただむね)は鎌倉時代後期の武将・歌人。忠景の子。知覧(院)氏の祖。
和歌に優れ、『続千載和歌集』、『新後撰和歌集』に詠歌が残る。これらの作品は本宗家四代の忠宗の作品とされる場合が多いが、『勅撰作者部類』には「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記があり、また父忠景・子忠秀がともに勅撰作者である家系的な側面から考えても、越前家の忠宗の作とみる方が自然である(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。
島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人。宇宿氏、宇留氏、信濃島津氏赤沼家の祖。
信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社の御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。
島津忠信(しまづ ただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。
越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
越前国上河北(かみこぎた/現在の福井市上河北町)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、如道上人(真宗三門徒派の始祖)に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。
上河北の専光寺は延享2年(1745年)、福井藩の要請によって木田辻町(現在の福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)、明治27年(1894年)9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2年(1244年)の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3年(1261年)以降であり、文永5年(1268年)頃と推測される(詳細は島津忠綱の項目参照)。播州島津家の系図に、忠綱が寛元2年2月7日に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる(杉本、上掲)。
『太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に 呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演 じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。
和歌に優れ、『続千載和歌集』、『新後撰和歌集』に詠歌が残る。これらの作品は本宗家四代の忠宗の作品とされる場合が多いが、『勅撰作者部類』には「惟宗(島津)忠宗 常陸介忠景男」と明記があり、また父忠景・子忠秀がともに勅撰作者である家系的な側面から考えても、越前家の忠宗の作とみる方が自然である(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。
島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人。宇宿氏、宇留氏、信濃島津氏赤沼家の祖。
信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社の御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。
島津忠信(しまづ ただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。
越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
越前国上河北(かみこぎた/現在の福井市上河北町)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、如道上人(真宗三門徒派の始祖)に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。
上河北の専光寺は延享2年(1745年)、福井藩の要請によって木田辻町(現在の福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)、明治27年(1894年)9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2年(1244年)の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3年(1261年)以降であり、文永5年(1268年)頃と推測される(詳細は島津忠綱の項目参照)。播州島津家の系図に、忠綱が寛元2年2月7日に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる(杉本、上掲)。
『太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に 呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演 じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。
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