足利二頭体制を支えるメンバーを考える上で参考となるのは、1345年天龍寺供養の「布衣」を務めた六名です。
表記順は「武蔵守、弾正少弼、伊豆守、越後守、伊予権守、上杉左馬助」となっています。
つまり高師直、上杉朝定、上杉重能、高師泰、高(大高)重成、上杉朝房、の六名です。
高一族から三名、上杉一族から三名という構成になっています。
上杉一族では二橋(八条)家の朝定、宅間家の重能、四条(犬懸)家の朝房です。
つまり椙谷(山内)家の憲顕らは関東では有力でしたが、当時の政権中枢では傍流にあったと言えます。
その後も四条(犬懸)家の房方や二橋(八条)家の満定が幕府の評定衆や相伴衆として活動しています。
山内上杉氏が上杉惣領となったのは憲定の時期だと思います。
憲定の時に上杉本貫地の丹波上椙庄漢部・八田郷と上杉氏寺の光福寺を所有したことを根拠とします。
ついでに「定」字は朝定以来の嫡流の諱という意味もあるのではないか、と思いました。
[出典]
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kensin.html
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