2014年12月12日金曜日


天正10年、元葛尾城主村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となった。千曲川を東の要害とする長沼城(長野市穂保)に島津忠直、飯山城に岩井信能(いわいのぶよし)、牧ノ島に芋川親正ら諸将を配した。村上国清は上杉謙信の養女を娶り、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っていた。
 家康は3月14日、屋代秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送っていたが、その臣属は秘匿されていた。小牧・長久手の戦いが始まるころに合わせるように、上杉景勝に叛き、本領の更級郡荒砥城に籠った。荒砥城は、冠着山(かむりきやま)東方の支脈にある城山(標高895m)山頂を本郭とする城であった。秀正は、家康に臣従した成果を実績で示す必要があった。秀正は、塩崎六郎次郎次と一族の室賀兵部大輔らと同心していた。塩崎氏は桑原の佐野山城に籠った。
 一方、小笠原貞慶(さだよし)は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 景勝は下越後の新発田重長を討伐する出陣を目前にしていたが、急遽、信濃へ出陣し水内郡長沼城に入った。
 4月13日、直江兼続が奥州会津に留まる「会津後家来衆」へ送った書状には、要約すると「信州海津在城を申し付けられた屋代と号する者、逆心していた。その仕置のため中途まで出馬したが、その響き承(う)け敢(あ)えず、逆徒の居城荒砥と佐野山の両地53日を経ずして自落した。行くへ知らずの体であった。」とある。それにも拘らず、兼続は屋代秀正の謀反が安曇地方にも波及することを懼れ、水内と安曇の郡境の小川の地士大日向佐渡守に書状を送り、出陣する代わりに「その地要人堅固に候の由肝要に候。参陣に及ばず、その元に之有りて、御番専用に候」と申し送っている。
 麻績と青柳(東筑摩郡筑北村坂北)両城が貞慶に奪われると、景勝は麻績城(東筑摩郡麻績村)に兵を派遣し攻め落とした。城主の青柳頼長は小笠原貞慶方に走った。そこで景勝は貞慶の北上に備えて、稲荷山(旧更埴市)に築城した。千曲川右岸が屋代で左岸が稲荷山の地となる。5月17日には、八幡宮神官松田民部助、保科豊後守、小田切左馬助らに在番を命じ、大岡・麻績方面に備えさせた。同時に岩井靱負尉には高井郡吉田の本領を安堵し、更に坂木領の内の力石(ちからいし;千曲市力石;坂城とは千曲川を挟む対岸)分を宛行い更埴南部の防備に当たらせた。
 一方、家康方の小笠原貞慶は、当面、防備のため城普請に専念し、真田などの佐久衆と談じ合のうえ、川中島へ侵出する時機をみはらかっていた。
 秀正の離反により海津城を預かる山浦(村上)景国は、秀正と同族であった事もあり、城代を罷免され、その地の領分を改易され、越後の山浦分のみ安堵された。
 家康は4月18、秀正に書状を送り「それより芝田七九郎(柴田康忠)殿差し遣わし候、いかようにも相談せられ、(中略)委細は大久保七郎右衛門尉(忠世)が申すべく候」とし、5月2日の書状では、小牧山の秀吉軍を「今度の凶徒等を悉く退治せしむ可きところ、(中略)その表いよいよ油断有る可からず事肝要に候」と、この頃、景勝軍が更級郡に深く侵攻してきたため、その対応を依頼している。秀正はこれに応え景勝軍を攻め、同月19日には、家康から書状で「わざわざ使者を差し越され、ことに太刀一腰、馬一疋、祝着の至りに候、(中略)然らば景勝を引き出すに付き、一戦に及び、敵百余りを討ちとらえの由、比類なき事に候」と賞している。同日付けの書状で、大久保忠世に、秀正に助勢した室賀兵部大輔信俊塩崎六郎次郎を含めた3人の所領は、一任するからと特に命じている。さらに景勝領との境の地には、秀正と室賀の両人が守備するよう申し送っている。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm

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