2014年12月11日木曜日

会津四家合考


会津四家合考(抄)
 
小川・山ノ内の者共政宗に属せざる事(巻ノ四)
 伊南・横田・川口辺の者共、葦名義広没落の後、面々、山ノ内へ帰りて居たりけるが、其中に、木伏無庵・同右馬丞などいう者は、早政宗の手に属すれば、此 等を案内者として、天正十七年七月七日、原田左馬助、長井の勢を率して、簗取の城へぞ向ひける、去程に、横田刑部大輔・河原田治部小輔等も、簗取へ力を合 せんと、後詰しけれども、いひ甲斐なく城を攻落され、地下人、大方小川を指して落行きければ、後詰したる者共、力なく引返しけるが、河原田が郎等伊南源介 という者、如何にかして、今度の不当人木伏が父子を討取らんと思案しけるに、此に木立茂りたる間に細道あり、末に小高き処ありて、ちと悪処の様なるを、夫 を上れば又平場にて、駆引自在なる処あり、さては是こそ究竟の場なれば、如何にもして、此処へ木伏父子をおびき出して、討取らんと思ひて、路の両傍なる茂 みが下に勢を隠し、其末の小高き処を打上りて、平場に己が指物を立て、草臥れて味方にも引後れたる様に見せて、芝居しけるを、はや木伏が許へ、伊南勢こそ 引後れて、彼処の茂が陰に休みて居たる由、告知らせたれば、木伏聞きて、すはや落武者の引後れたるは、人馬の疲れたらん故なるべし、それ馳向つて討つて取 らんとて、木伏父子、猶予もせず寄せ来りける、源介これを見て、さてこそ敵は、思う図に引寄せたるを、必ず爾々ならん時に切つて出でよと、茂みが下に隠し 置きたる味方に相図し、態と儀勢もなげに見せければ、木伏程なく押寄せ、只一息に討取らんと、進み懸りけるを、源介は、同志の者共、漸く七八人、かつに立 連れて、件の小高き処を上せじと、防ぎ戦ひけるが、予て指したる図を違へず、茂みが陰に隠れ居たる者共、とつと喚いて、一度に切つて出づれば、木伏は、思 ひも寄らぬ荒手の勢に、後より切つて懸られ、前後の敵を防ぎ兼ねて、弓手よ馬手よと周章て騒ぎけるを、追懸け追懸け切伏せ撞伏せ、難なく木伏父子を討取り ければ、源介は、思うままの軍したると、色を直して伊南へかえりぬ。

山内刑部大輔合戦の事(巻ノ四)
 山内刑部大輔氏勝は、天正十七年六月、義広没落の後、直に横田へ帰りて居たるけるを、原田休雪・片倉意休が方より、政宗へ降参せよとて、度々督促すれど も、一向に同心もせず、此上は、事の仔細を、太閤へ注進申度は思ひけれども、其頃天下の事、西戎南蛮北狄は、早や、武命に属すと雖も、東夷遐陬は、未だ穏 ならず、殊に相州北条の累葉尽く蔓利小田原に住して、莫大に八州を押領し、遠く貞任・将門等が威風を慕ひけるにや、王威を憚らず、武命を軽んじ、終に上洛 もせざれば、太閤より、彼が不逞の非を責め、朝覲の礼を厳にせん事を、平に御催促なれども、一同心せず、剰へ治承の古、右兵衛佐頼朝の討手として、平の維 盛を始め平家の軍兵、数を尽して馳下ると雖も、事なき鳥の羽音におびえて、今の世とても、何の替りかあらんなんどあざ笑ひ、且は身の大名なるに誇り、且は 箱根山の険しきを頼にして、専ら雅意に任せて挙動ひければ、秀吉公、以の外腹立し給ひ、是非に御発向あつて、北条の一族を追討し給はんとて、国々へ其下知 を下され、都鄙確執の折節なれば、今奥州より謡々と、国々の関所を打越え、伏見迄隠密の文を上せんも、路すがら心元なし、兎やせん角やせましと、案じ煩ら ひけるが、年来睦しかりける密宗の沙門のありけるに、此頃、爾々の思案ありて、心を砕く由を密に語りけるに、其沙門、事の仔細を聞きて、さあらば某、如何 にもして、伏見へ罷上り、其事申叶へて見候はんとて、折しも冬の事なれば、刑部が文をば、膚騎れたる着物の襟に入れ、様をは廻国の順礼に出立ち、去年極月 横田を立ちて、伏見へ上りけるが、路すがら密しき関守は、彼沙門の着物を剥取り、捜し出されず、程なく伏見に至り、石田治部少輔三成の許へ便り、奥州会津 葦名の家にて、爾々の仔細なる山内刑部大輔と申す者の方より、飛脚を上せて候と、事の仔細を披露しければ、三成、有の侭に太閤へ奏し申さる、刑部が斯る企 あるとは、黒川の面々夢にも知らず、又原田・片倉が方より、弥降参せよと催促度々に及びければ、刑部つくづくと身上を思案するに、誠、少は大に敵すべから ずといふ如く、なまじなる事を仕出しては悪かりなん、所詮一先づ降参したとて、面面に油断せさせ、時刻を計うて野心を企てんに、何の難き事のあらんやと思 へば、一族なる西方道庵・河口左衛門佐・布沢上野・野尻兵庫などいふ者共、六七人打寄りて、隠密に談合するは、我れ爾々の思案なれば、御辺達も、一先づ政 宗へ降参し給へ、さて又、後日に思立つ事あらば、相構へて今此連座の人々は、此約束をば変じ給ふなとて、互い堅く誓詞を調へ、其後、皆黒川へ来りて、政宗 に見参したりけるが、刑部は、重代の刀一腰、政宗へ進らする。去程に伏見にては、三成御諚を承り、細々と返答の文を書きて、飛脚の沙門に給はりければ、沙 門は嬉しく思ひ、程なく会津に下り、三成の御方より、爾々の事に候とて、返答の文を披露す、刑部則ち開いて見るに、其状に曰、態預飛札快然至極候、抑去夏 以来来被対義広、無二御忠功之段、誠以無比類候、則遂言上候処、御感不斜候、弥丈夫、水窪、大塩両城共可被相抱事専一之旨、御諚候、然此条相背御下知故、 来月中旬初、家康・景勝御人数被差遣、三月朔日有御出勢、北条御成敗評定候、自其直、黒川御乱入、政宗可刎首落候、然時者、今少之義候間、其元之義、無由 断事肝要候、将又大沼郡伊北地、御舎弟大学助殿身上之事承知、条々令得心候、窺御透令言上、重而御朱印相調可進之候、加様之義、只今雖可相極候、其表之 義、無御心元候、殊飛脚急候間返遣候、猶井口清右衛門可申越候、恐々謹言

  正月十三日

                               三成
  山内刑部大輔殿   御返事
と書きたり、刑部は此文を見て、誠、竜の水を得、虎の山によりかかりたる勢、俄に出で来りけれども、此事泄れなば、身上の安否も如何にと思へば、深く胸臆 にのみ納めて奔走しける、政宗、斯くとは夢にも知り給はず、或日の僉議に、降人に出でたる者共、譬ひ何気なく手に属したる振に見ゆるとも、面々が思案の程 の知れねば、刑部等が様なる者共をば、聊の用事ありとて、在処への暇を乞へども、一向に許容せず、黒川に平に引詰め置くべしと内談を究め、其由、面々に下 知す、刑部は、何始終は、用ふまじきものをと呟き乍ら、暫くは奔走しけるが、或時思立ちけるは、つくづくと身の行末を思遣るに、譬ひ累代葦名殿に属きたる も、一向の被官にてはなかりつるを、今度政宗に見参してより、大抵は先規の様に会釈すと雖も、心底には、一向の家人なりと思ふ振なり、殊に今度、黒川に引 詰め置きて、聊の用にも、在所へ安居さすまじき内談と聞えぬれば、此侭下知に従ふならば、間もなくいえ人被官となり、伊達累代の郎従某に、頭を下げ膝を屈 めん事、目の前なり、其時、先非を悔いたりとも、更に其甲斐はあるまじ、斯くては近く生涯の恥辱、遠くは先考の名をも汚すなれば、所詮存亡を運に任せて、 在処の要害楯籠り、討手の勢の向ひなば、矢種のあらん程は防ぎ戦ひ、矢種尽きなば討つて出で、思ふ敵に逢うて討死すべし、自然我運命の尽きずば、三成の返 答の様に、秀吉公、小田原の御合戦事終り、政宗身の上に、何様の珍事の出来なんも計り難し、殊に此頃、伏見を御進発の由、去年の冬より御定なれば、小田原 にても其用意に伊豆の山中・韮山の城に大勢を籠めて、殿下の御下向を、一防ぎ防がんずる支度なりと聞ゆ、所詮我も此次に紛れて、身の上の一大事を思立つべ しと、事の始終を思案し、或時刑部、在処に老いたる母の一人御座し候が、以の外異例し、最早存命は覚束なく見え申す由、申来候間、哀れ二三日の御暇を被露 す、是に付きて面々僉議するは、いや黒川に在府せられ候へとの下知も、此頃の御事にて候に、間もなく左様の事の侍らんは、政宗、如何様に思はれんも計り難 く候、御異例大概の事にて候はば、先々御延引候て然るべう候と会釈す、されど刑部、平様にと嘆きければ、其由を、有の侭に披露したりけるに、政宗聞き給ひ て、実々異例偽ならずば、一族の中、一両人質に留め置き、三日の逗留にて、在所へ返し候へとの会釈なれば、頓て其由を刑部に下知しけるに、仰の旨畏りて 候、さあらば質を残し置き、追付罷帰りてこそ、信を顕し候はめとて、猶子なりける出羽と、左馬助とを質に出し置き、野尻・河口等には、談合すべき暇こそな からめ、只一人横田へ帰りけるが、密に出羽と左馬助とを呼寄せ、我れ爾々の企にて、方便りて在所へ帰るが、三日の逗留とて暇を得たれば、三日過ぎて我れ来 らずば、事既に顕れ、汝等落ち難かるべし、必ず油断せず、善からん透間を見済して、三日の内に落ち来れ、若し運尽きて落ち得ずば、是を最期と思ふべしと、 名残の暇乞し、さらぬ体にて横田へ帰りけるが、斬る大事を我れ一人にて功をなさん事、中々叶ひ難ければ、所詮上杉景勝へ、事の仔細を注進して、後詰の勢を 請はんと思ひ、其今度、爾々の難儀に及び候間、哀れ御疑なく、不日に後詰の御勢を下され、此救難を御扶け侯へ、其事の実を顕し申さん為め、此者共を、質に 進らせ侯とて、一族なる童一人に、頼もしき郎等一人差添へて、越後へぞ遣しける、斯くて刑部が、黒川に質に置きたる出羽と左馬助とは、油断なく透間をねら うて居たりけるが、或時善き透を見済し、二人共に打連れて、横田へにげ帰る、黒川にては、刑部が質に出し置きたる左馬助こそ逐電したれ、すは出羽も共に見 えぬはとひしめき、扨は心を免し、刑部めに出抜かれたると、政宗腹立せられ、何様徒事ならねば、一族なる野尻・河口等も、よも知らぬ事はあるまじ、又油断 して、彼者共も取遁すな、急ぎ彼等を呼寄せて、委細に事を尋ね、其上、討手を遣すべきとて、頓て野尻・河口等を招寄せ、精しく事の由を尋ねけるに、当座の 難に恐れて、其罪を償はんとや思ひけん、内々の有増の事、爾々の相談にて侯と、有のまま白状しければ、扨は討手を向けて、其刑部めを討取らんとて、大波玄 蕃允に、三百余騎の勢を差添へ、既に黒川を打立たんとしける処に、布沢・河口・野尻等も、政宗御疑だに侯はずば、討手の御勢に交り、路筋の案内仕り侍らん 由しければ、政宗も、彼等が有増の事のを白状し、野心を翻したる上は、何ぞ疑心あるべき事ならずとて、則ち彼等を案内者にぞ添へられける、去程に横田に向 ふ路筋を、精しく尋ねけるに、彼等懇に指南するは、楊井津へ懸り侯と、野尻へ懸り侯と、海道二筋侯が、楊井津よりは、野尻口より押寄するが、如何にも味方 便宜に侯と申す、さあらば路次の安きに付きて、野尻口より向ふべしと評定して、黒川を打立て、横田を指して、馳向ふ、斯くて野尻の郷にて勢を引分け、川口 左衛門佐に差添へて、彼が在所河口へぞ遣しける、是は内々、刑部が在所越後へ隣り、上杉景勝累年恩顧の者なれば、自然今度大勢の馳向ふに聞怖して、越後へ 落つる事もやあらん、さあるに付いて一族なれば、小川荘に居たる西方道庵を語らひ連れて、落行く程ならば、是非に河口を通るなれば、内々彼地に相支へて、 討取る為めの支度なり、去程に大波玄蕃允、相具したる面々に談合するは、此侭直に横田へ着き侯ては、一向敵の案内をも存ぜず候間、一先づ上野介殿の在処、 布沢に一宿致し、忍を入れて、能々敵の為体を聞かせ、其内馬共の足を休め、心静に始終の支度をしてこそ、横田へは押寄せ侯ふべしとて、程なく布沢の郷へ着 き、兼て談合の様に、横田の為体を懇に聞済し、同三月十七日、まだ東雲の頃より布沢を立ちて、横田へ向ひけるが、路の程、坂東路二十余里にして、其聞に、 松坂といふ大山あり、此山の麓、大俣の在家の際より、且過といふ谷川流れて、其末は只見川へ落つる、此川の縁に沿ひて、程なく横田へ着き、且過の橋を打渡 りて、要害の下、中丸といふ平場なる処へ勢を打上げ、暫く人馬の息をぞ休めける、そもそも此城は、西に当つて只見川流れ、其より僅南、且過の川端より、や やこ沢とて浅沢流れ、東を北へ打廻りて、乾の方にて、是も只見川へ落つれば、僅西の一方、只見川の縁迄こそ、陸には続きたれども、平地よりは遥々と上り て、殊に二三の丸の城戸口、何れも狭かりけるに、寄手の大勢、鎧の袖を連ね、鑓の穂を揃へて、何此小城を、只一揉に揉落さんものをとこうり乍ら、曵や声を 出して攻上りけるが、内々刑部、此城の地を料簡して、三の丸の城戸口と、二の丸の城戸口に、石弓を張懸け、哀れ敵の近々と寄せよかし、同時に落し懸けて漂 ふ処を、差詰め引詰め、散々に射殺さんものをと支度して、善からん図をぞ待ち居たる、寄手、是をば夢にも知らず、猶予もなく我先にと攻上りて、既に城戸口 近く寄すれば、すは兼て指したる図はここぞと見済し、中丸大膳、上横田石見守といふ二人の者共、三の丸の城戸口に支へて、内内張懸けたる石弓を、一度に切 て放しぬ、去程に、上が上に塞き合ひたる寄手の大勢しどろになり、甲の鉢を砕かれ、手足を打折られて、手負・死人、人頽雪(ひとなだれ)を突いてぞ見え し、此由を見て、大波玄蕃允、案に相違し、いやいや、今日は偏に小城なりと侮りて、一旦に攻めたる故にこそ、斯く大勢の手負・死人は出来たれ、一先づ布沢 へ帰りて、重ねては攻具足をも支度し、何様行を替へて攻むべしと評定し、布沢を指して引きたりければ、刑部、今日は思の外、安々と敵を追返したるよと喜び て一息突き、頓て一族郎等を集めて僉議するは、此まま此城に怺へて、幾日も敵を防ぎ、内々請うたる越後勢の着くを待ちて、其後、勝負を決せんか、又大塩・ 水窪の両城は、只見川を隔て、尋常舟にて通ふ処なれば、彼両城に楯籠り、渡の舟を引きて、寄せ来る勢を防がんか、二の内、何れか図に当るべき、面々が思案 には、如何思ふぞと問ひたりければ、さん候、今日は石弓にて、思の外、味方利を得て候、尤も未だ用意の石弓御座候へども、是は一偏の支度にて御座候へば、 重ねては、やはか石弓にて討たるる様に、敵、よもや攻め申すまじく候、殊に敵は、後詰の軍勢、兵糧の運送も自由に候に、味方は只越後計りを頼にして、此城 に怺へ給はん、所詮此上は、大塩・水窪の両城に楯籠り給はんこそ、愚案には相叶ひ候と、衆議一途に申しければ、刑部、実にもと同心して、其日の申の刻計り に、横田の城を立出で、只見川を打渡り、大塩の城には、横田左馬助を入置き、刑部は直に水窪の城へぞ入りぬ、是は敵、大塩の城へ寄するには、舟ならでは、 一向に通ふ路もなければ、渡の舟をだに引かば、中々心安心し、水窪の渡には、歩行にて渡す浅瀬あれば、此を大事と機遣ひ、刑部自ら警固して、防戦すべき為 めなり、斯くて暫く日数を経ける内に、上杉景勝より後詰として、郎等甘数備後守・須田大炊助に、大勢を差添へ、千余人、兵糧を持たせて馳着きたれば、刑部 斜ならず喜びて、忽に籠鳥の故山に帰り、涸魚の大洋に躍る心地出で来ぬ、去程に面々僉議するは、越後より、後詰も大勢馳着きたるに、間近く敵に足をためさ せ、延々に敵の寄するを待たんも、言甲斐なければ、いざ明日の朝の間にも、布沢へ押寄せ、彼大波を蹴散らして除けんと、口々に逸りけるを、刑部聞きて、い やいや、明日は悪日にて侯間、重ねて布沢の為体を懇に聞き、緩々と事の支度をも調へてこそ、寄すべき候と会釈すれば、面々事の延々なる様にて呟きけるを、 刑部が一族共、是を聞付け、陰にて爾々の沙汰仕る由、誠、さりねべう覚えて候、又越後勢の思ふ処も如何に候間、平に明日布沢へ寄せて、一軍めされ候へと、 余儀もなく意見したりければ、とにかく布沢へ忍を入れ、敵陣の為体を細に聞き、時宜に付きてこそ計らふべきとて、案に忍を遣して、布沢の様をぞ問はせけ る、又敵陣にて僉議しけるは、横田へは、越後より後詰の大勢馳着きたると聞ゆ、さあれば延々に、此方より押寄するをば、よも待ち候ふまじ、必定此方へ、逆 寄にすべく覚えて候、案の如く逆寄にする程ならば、彼松坂こそ、味方所望の悪所にて侯、本より平場にて、駆引き自在の軍こそ、勝負は勢の多少にも依るべけ れ、是へ山路の嶮難を、敵一息に挙上り、人馬の息を疲らして、此方へ下らんずる処を、内々境の沢の辺に勢を隠し置きて、善からん図を見合せ、一度に瞳と喚 いて、弓・鉄炮を射懸け打懸け、敵の跡を駈塞ぎ、必定途に迷ひて、進退猶予せんずる処を、此方よりも鬨の声を合せて、同時に打つて懸り、前後より揉合せ ば、敵たとえ幾万騎の多勢なりとも、一楯も合すべしとは覚えねば、軍は必ず思ふままに打勝つべし、所詮敵、逆寄にする程ならば、さぞ此方の案内を見すべき ぞ、必ず無勢なる様にして、音なせそと下知し、態と静にして居たりける、敵に斯る謀ありとは、思ひも寄らず、刑部が遣したる忍の者馳帰り、布沢の敵は無勢 にもや候、一向静々と見えて候と、打見たる体を語れば、さてはや明日は未明より、布沢へ押寄せんと宵よりも支度し、夜既に明くれば、刑部は越後勢を打連れ て横田を出で、布沢を指してぞ急ぎける、程なく松坂の嶮難を挙上りける処に、不思議の珍事こそ出で来れ、敵、宵よりも横田へ忍を入れて、刑部が明日此方へ 逆寄にせんと支度する由を聞済し、すは敵をば、思ふ図に引受くるぞ、内々僉議したる様に方便りて、勝負を此一挙に決せんとて、其暁方より、境沢の辺へ大勢 を出して隠し置き、爾々の時刻に及びて、一度にとつと打つて出でよと相図を指して、そぞろ待する折節、刑部は是を夢にも知らねば、何心なく敵陣の、思ふ図 にぞ行当りぬ、其時内々、境の沢の辺に隠れ居たる者共、思ひも寄らぬ背より鬨を作り懸りて、とつと一度に打つて出づれば、刑部、こは如何にせんと、進退猶 予しける処に、又布沢よりも、内々相図を違へず、同時に鬨の声を合せて、透間あらせず切つて掛れば、前後より揉合する大勢の敵を防ぎ兼ね、互に今を最期ぞ と、掛合ふ詞を力にて、面を振らず戦ひけるに、刑部が随一の郎等横田出羽・同安芸などいふ者を始として、矢沢が一党十四五騎、其外都合六十余騎、矢場に討 たせけれども、山路の悪処にて、懸引自在ならねば、須田・甘数も、思ふ様に助け合はず、兎角進退谷まりて見しけるが、其後は、大塩・水窪の両城に楯籠り、 只見川を境ひて、用心してぞ居たりける、斯くて、景勝も、太閤の御督促に従ひて、小田原へ向はれければ、先日後詰したる勢も、程なく越後へ引返せば、刑部 は弥無勢にぞなりにける。


山内刑部大輔合戦の事(巻ノ九付録)
 刑部、去年より節を守りて、堅固にこらへたる上は、早々小田原へ参陣し、爾々の由披露申さば、所領安堵の御沙汰相違あるまじかりしを、小田原へ打出でた る内に、政宗に押領せられては、叶ふまじきとのみ、心元なく思ひ、太閤へ降参の実を顕はさざる故、何の御沙汰にも及ばず、累代の所領を没収せられしとな り、彼は保元の乱に、武功十七騎の内にて名を顕したる、山内須藤刑部俊通が裔なりといふ、俊通より幾伝にして、何の頃会津へ来る事詳ならず、按ずるに義 連、会津へ下向の時、山内庶子、幕下に属せられ下りてより、累代国人となりたるべし、葦名家、或は長尾家などより、書礼の式を見るに、さのみ下輩の会釈に てはなきなり、彼れ横田に居たる故に、横田ともいふなり。


河原田治部少輔合戦の事(巻ノ五内)
 河原田治部少輔盛次は、当時其身卑しと雖も、先祖を遠く尋るれば、大織冠に三代、房前の大臣より六代、鎮守府将軍秀郷十三代の後胤、結城七郎朝光が男、 同阿波守朝光が男に、長広といふ者あり。始めて下野国河原田の郷に、隠居してより以来、代々河原田を氏として、十代に当れる河原田筑前守友秀が男なり。さ れば盛次、去年六月十日、義広、黒川を没落の以後、伊南・久川の城へ帰りて居けるに、政宗、黒川へ打入られて後、南山長沼弥七郎盛秀が方より飛脚到来し て、細々と消息しけるは、此頃、富田・平田等を始めとして、皆政宗へ味方に参られ候間、御辺にも、早々味方に御参り候へかし。政宗御前の事は、某、能き様 に計らひ可申候と詞を尽しければ、盛次、一族郎等共を集めて評定しけるに、芳賀阿波といふ者、他に譲らず言出でけるは、面々の思案は、兎も角も候へ。御相 談の上は、憚らず申上ぐるにて侯、如何に世移り時衰へて、陪臣の身と御なり候へばとて、正しくも藤原の御縁、結城の末にて御座せば、自余のは端武者の所存 とは、事替り候ふべし。さこそ御覚御座候はん。先年仙道安積にて、政宗へ、無二の味方にだに御参り候はば、山八郷の内は、永代に進らせんと、様様に申来り 候時だにも、御同心あらで、今義広、此様に御なり候へばとて、手の裏を返す様なる御挙動、某に於て左あるべしとは、えこそ申すまじく候。只某が愚案の程を 申さば、年来重恩の郎従等に、能々御心を一つにせられて、此要害に楯籠らせ給ひ、善からん路次の切所へ、少々勢を分置き、幾度も寄せ来る敵を防ぎ、叶はぬ 時節に及ばせ給はば、上杉殿は、累年御入魂の事に御座候間、急に仔細を御注進ありて、後詰の勢を御請ひ候へ。其にも叶はぬ者ならば力なし。御運の末と思召 して、尋常に御腹召されん事、家の面目と存じ候。されば命は一代、名は末代と申すものをと、余儀もなく申しければ、満座此議に同じ、盛次、頓て盛秀が方へ 返答するは、承る意趣、譬ひ自余の思案は兎も角も候へ、なまじに武士の家に生れて、二張の弓を引き候はん事、某に於ては、えこそ致すまじき事に候と、文な き会釈なれば、盛秀以の外怒り、其儘黒川へ来りて、盛次が方へ爾々申候へば、文なく斯様の申条、無念に存じ候へども、上を憚り申せば、斯様に申上候とて、 盛次が返答の文を披露し、仰ぎ願はくば、伊南領を、某に下し給はり候はば、自分に意趣と申し、盛次を討つて、領知可仕候と切に望みけるを、政宗、仔細なく 同心なれば、盛秀、急ぎ田島へ帰り、軍勢を催促して、程なく伊南へ馳向ひ、盛次を討たんとす。此風聞を伝へ聞きて、盛次は時刻を移さず、久川の城に楯籠 り、用心堅くして居たるけるに、盛秀打続きて、両度迄寄せたりけれども、盛次、毎度中途へ出向ひて、手痛く防ぎ戦ひたれば、盛次、軍利まくして引返しける が、程なく寒気烈うして雪降積り、人馬便を失ひければ、盛秀続きて寄せ得ざれども、且は政宗を敵とすれば、斯くて始終叶ふべうも覚えず。さあれば、身上の 有増を、伏見へ注進申し、太閤の恩顧にも預からばやと思ひ、縁者なれば、横田刑部にも、此事斯くと相談して、郎等主膳入道玄佐といふ者を、廻国順礼の様に 出立たせて伏見へ上え、石田治部少輔三成に便りて、事の由を注進したりければ、三成、仔細を太閤へ披露ありて、同正月十三日、三成より返答の文を給はり、 玄佐は急ぎ奥州へ下りける。斯くて盛次、三成返答の文を開きて見るに、弥三月朔日には、内々御下知の如く、相州北条が一族御征伐として、秀吉卿御下向あ り、其次に、奥州の城士共の非礼を正さるべきの由、御諚なれば、今些の間に候間、猶々堅固に相怺へられ候へとの由、細々と書かれたり、盛次、此文を見て、 忽ち悲嘆の眉を開き、誠、忠心を、鉄石の堅きに比し、存命を、霜露の脆きに准へて居たりけるに、又黒川にては、如何にも方便りて、盛次を討つべしとて、富 田が郎等角弥といひし者を、商人になし、当麻の文保を行脚の僧にして、二人共に伊南へ遣し、日を経て経回する内に、隠謀の者共を語らひけるに、伊南源介と いふ者は、何ぞ己が貧欲に耽り、主の首を伐つて、世に身を立つる者やあると、懸隔に思ひけれども、今の世の中なれば、何者か誑されて、打うなづいたる事も やあらん、些と打解顔に会釈して、人々の心の奥を窺はばやと思ひ、其儀ならば、某も一味致すべう候。併只今は雪深くして、万づ便宜ならず候。頓て此辺雪消 え候て、人馬路次の往来も、自由になり候はば、某隠密に注進申すべく候間、其節偽にも、政宗殿、此辺へ御発向ある由沙汰せられ候へ。其を次に、盛次に異見 致し、御味方になし申すべく候。
自然同心致さず候はば、方便りて討ち申し、某等御味方に参らんに、何の仔細か候はん。されども盛次が近習に伺候の者共の、所存の如何候はんや。是のみ覚束 なく候ぞと、打解顔に語れば、扨は誠の同志よと心を免し、いや其迄は機遣し給ひそ。御辺にこそ、始めて談合申しつれ。自余の面々には、疾に爾々の相談して 候とて、内々隠謀に与して、面々が名を書きたる一封の書を取出して、源介に見すれば、源介開きて之を見、扨此等の者共をこそ、如何あらんと機遣ひ申しつ れ。此者共が斯る上は、何の仔細の候ふべき。弥雪消え、馬の足自由になりて、隠密の注進可申候。殊に此一封を、某に御預け置き候へ、其仔細は、追付一味の 者共と、隠謀の談合候はんに、某が申す計りにては、今時の世の中なれば、何事にかさいふぞと、始終を機遣ひ、さぞ打解けて、心の底を翻し候ふまじ。然るを 此一封を留め置き、始より打解けて、談合致はば弥何事も便宜ならんと存じ候へば、斯く申すにて侯と、余儀なげに会釈しければ、二人の者共、扨は仔細あらじ と思ひ、件の一封を源介に渡して、黒川へ帰りぬ。されば誠に隠謀を企て、盛次を討たんに、何ぞ延々に、雪消え世上の暖になる迄を待たんや。華竟は、兎角会 釈して時日を移し、其内に、此の辺六十里越・八十里越の峠々に雪消えば、便宜に付きて、越後上杉殿より、後詰の勢を乞ふ迄、事を延々にせんが為なり。去程 に二月も暮れ、弥生も始つ方になり、谷峰に残んの雪少なにして、路次の往来も自由になれば、すは内々期したる時刻よと思ひ、或時源介、己が一味なる者に鎧 着せて、一間なる所に隠し置き、其上、隠謀の聞えある傍輩の方へ、密に使を立て、些と談合の仔細候間、我屋へ来り候へと、何気なく言遣りければ、頓て面々 来りけるに、源介、近々と寄つて、今面々を集め候事、別儀にあらず。爾々の隠謀の聞え候。てきめんに虚実の程を議し、事実に於ては、面々と刺違へんと思ふ といひも敢ず、内々隠し置きたる武者共、近々と詰寄りければ、隠謀の者共は、以の外仰天して、こは何者がさは申すぞ。一向形なき偽にて侯ものをと、強ちに 陳ずれば、源介聞きて、我も始より、さは思ひし事よ。併一時の疑を晴らさん為なれば、面々が妻子の内一人宛、質に出され候へ。さあらば更替して、何れも宿 所へ返し候はんぞと、事理なく責めければ、仔細に及ばず候とて、面々妻子の内、一人宛呼寄せて、質にぞ出しぬ。去程に源介思ふ様、此程漸く雪消えて、馬足 の往来も自由なれば、不意に盛秀が寄せ来らん事覚束なし。事の難儀の出で来ぬ前に、上杉殿へ申入れて、後詰の勢を請はんとて、盛次が嫡子伊勢王丸とて、十 三歳になりけるに、一族なる河原田左馬允、并に源介が久千代といひし子を差添へ、其外、此頃取置きたる質共一同に、越後上杉殿へ遣し、爰許去年より爾々の 仔細にて御座候へば、不意に難儀の出来んも覚束なく候。向後事の難儀に及び申さば、其由を注進申すべく候間、見続の御勢を給はり候へ。其事、聊詐を存せざ る証拠に、爾々の質を進らせ侯と、余儀もなげにぞ申入れける。又内々太閤よりも、会津にて爾々の者共、政宗が為に難儀に及ぶ由、其聞えあり。隣国なれば、 兵糧、玉薬に到る迄運送して、彼等が急難を扶け申すべきの由を、景勝へ下知し給へば、爾仔細に及ばず、何時なりとも注進次第に、後詰の勢を遣すべきの由返 答なり。案の如く弥生半の頃、盛秀、田島より中津川へ打出で、布沢上野介、同信濃守等と一つになりて、小林の城を、二日の内に攻落させ、上なる山の尾崎に 逆茂木を引き、鹿垣緊しく結廻らし、用心して居たり。此由、伊南へ聞えければ、さあらば急ぎ小林へ勢を向け、田島勢を討取らんとて、混甲三十余騎・足軽百 余人属けて、小林へ遣しける。田島勢は、伊南より、敵の向ふ由を聞きて、布沢を指して引退く。去程に盛次が郎等共、一追追うて勝負を決せんと逸りけれど も、いやいや布沢辺、路の悪所にて、返し合せられなば、必ず味方打負くべし、所詮敵の聞落したるを幸にして、長追は無益なるべしと僉議して、面々伊南へ引 返し、布沢にて爾々なる由、告げたりければ、盛次、事の由を聞きて、扨は盛秀が勢、数を尽して皆布沢へ打出で、田島は、さこそ無勢なるべし。今此隙に馳向 ひて、方々に火を懸けて、敵を途に迷さば、何条珍事の出来んも計られざるぞと、そぞろに評定して、久川を打出で、程なく田島に着きければ、先づ針生の在 家々々に火を懸け、夫より彼方此方の里々に火を付くる。勿論不意の事なれば、男女老少、こは何事よと周章て騒ぎ、上が上に塞合ひて、東西四維に北げ迷ふ。 金井沢左衛門佐が女房は、盛秀が姉なりけるを、捜出して生捕りければ、猶弥増に周章て騒ぎ、急ぎ事の由を、盛秀が方へ告知らする。去程に盛秀、以の外仰天 し、田島へ引返せば、金井沢左衛門佐が女房を始め、生捕の者共召具して、伊南久川へぞ帰りける。盛秀も、程なく田島へ帰り、こは如何にと、先非を悔いても 返らねば、其侭黒川へ来りて、盛次が事、去年も両度迄罷向ひ、又此程も、罷向ひ候へども、退治延引仕り、剰へ彼者、爾々の狼藉致候。哀れ此上は御力を借 り、安々と彼者を、退治仕度由を披露す。政宗聞き給ひ、以の外腹立せられ、何に夫程余す敵と知りながら、安々と討つて、其跡を所領せんと迄は所望したる や。一向言捨てたる辞にも似ぬ挙動するよな。いでいで。汝が力に叶はずんば、去年下し置きたる伊南領、安堵の璽を返し候へと、文なき会釈なれば、盛秀は、 当座に面目もなく退出す。去程に政宗、盛次退治として、自ら伊南へ出張せらるる由、其沙汰頻なれば、盛次伝へ聞きて、急ぎ越後上杉殿へ使を進らせ、爰許難 を給はり候へと請ひたりければ、横田刑部大輔が方へ、後詰の勢と一同に、清野清樹軒・安田上総介・木戸元斎等を大将として、其勢都合三千余騎越府を立ち て、程なく黒谷辺に着き、此にて路次の疲を休めて、黒川勢の寄せ来るを、今や遅しとぞ待ち居たる。斯くて越後より、横田・河原田等に後詰し、敵の大勢、分 国へ乱れ入りたる由、黒川へ聞えければ、扨は其沙汰猶予すべからずとて、政宗代官として、混甲三百余騎・鉄炮五百余挺、盛秀に相添へて、伊南へぞ遣しけ る。盛次は油断なく用心して、久川の城に居たりけるに、盛秀、久川へは寄らずして、直に泉田の要害へ押寄せける。内々此城には、盛次が郎等富沢藤助・五十 嵐和泉・宮床兵庫といふ者に、僅五十余騎の勢を相添へて籠置きたり、盛秀、此城へ寄すると等しく、十重二十重に打囲みて、何に是程の小城を手に入れても、 揉潰さんものをとて、息を続かず攻上る。山城なれば、かさより見下し、大石・大木を転し懸けて漂ふ所を、矢を散々に射懸けて、此を先途と防ぎ戦ひければ、 少々手負・死人はありと雖も、城の分内は広くして、防ぐ勢は少なければ、次第に草臥れ機疲れけるを、午の刻計より、酉の刻の下りになる迄、敵荒手を入替へ 入替へ、揉みに揉みてぞ攻めにける。久川にても、此城の難儀に及ぶ由を伝聞き、後詰したくは思ひつれども、勢を分けて後、自然無勢なるを敵に知られ、駒戸 より寄せられては、中々耐るべうも覚えねば、一騎なりとも、見続の勢は来らず、只城中の者共計り、長き日を、一日戦ひ暮しければ、いつとなく残少なに討な され、富沢藤助も早討たれて、今は兵庫と和泉計りぞ生残りける。されども二人乍ら、十ヶ所計り手負ひぬれば、五体は直みつ、軍には仕疲れつ、斯くては、い つ迄命存ふべしとも覚えねば、五十嵐和泉、宮床兵庫に向つて、何でふ斯くては、幾程存ふべしとも覚えず候へば、一向自害して死なんとこそ思ひ候ぞといひけ れば、兵庫答へけるは、我もさ思候へども、併味方の安否、今度に限るべきにもあらねば、如何にもして此急難を遁れ、久川にて、味方の面々と一所にて、兎も 角もなりなんこそ、最期の思出にて侯はめ。夫に就いて案じ出したる思案の一つ候ぞ。所詮安否は運に任せて、平様我計に同心せよといふままに、城中にて討た れたる者共の、首二つ掻切つて、二人が手に提げ、ふつと駈出で、城中の大将和泉と兵庫と二人を討つて首取り候間、急ぎ大将の実検に入れたう候。長沼殿の御 陣は、何処にて侯やらんと、高らかに呼ばはりければ、在合せたる者共、をう大将の陣は、麓にて侯ぞ。扨は両人の御挙動、勇々しやと計り感ずる声して、黒川 勢は、さこそ田島勢の内ならんと思ひ、又田島勢は、黒川勢の内にてこそあるらめと、互に過して、恠しむ者もなく、中を開いてぞ通しける。斯くて和泉と兵庫 は、稀有に虎口の難を遁れ、十ヶ所計りの疵より流るる血に、朱になつて久川へ帰り、敵を爾々に方便りて、落参りて候と、事の由を披露しければ、盛次聞き て、二人が挙動を深く感じぬ。去程に黒谷辺に控へたる越後勢は、盛秀が寄せ来りて、泉田を攻むる由を伝へ聞き、只今此へ後詰する由、聞えければ、盛次思ひ けるは、今朝より数刻軍して、機疲れたる者共が、又荒手の大勢に取籠められては、勇々しき大事なるべし。今日安安と、此城を落したるを勝にして、早々田島 へ引返し、暫く機を助けてこそ、伊南へは寄すべけれと、直に田島へ引返す。斯くて数日を経て後、今度は久川へ寄せて、一軍せんと評定し、立岩・中山を打越 え、先づ恥風の在家に火をぞ懸けたりける。此由を、久川にて山越に見付け、是れ何様、敵、立岩より越え来りて、恥風に火を懸けたると覚ゆるぞ。元来立岩二 十余郷は、盛秀が所領なるを、先年盛次、三箇二を押領すれば、今度を次に奪ひ返して、其遺恨を晴さんと思ふなるべし。夫れ駈向つて追散らさんとて、面々取 る物も取敢ず、恥風指して馳向ひけるが、盛秀、内々謀りけるにや、朴木の山路を打越え、大内沢に懸りて、古町の上なる上田原へ打出で、此に暫く勢汰して、 今が間に、久川の城へ押寄せんずる気色にぞ見えぬ。盛次が勢は、数を尽して、今朝皆立岩へ向ひければ、久川には、墓々しき士の一人も残らず、只盛次が女房 を初として、女の童共計り差添ひ、こは如何様の憂目にか逢はんと、周章て騒ぎけるが、漸く立岩へ使を立て、此由、斯くと急を告ぐる。斯りける所に、宮床四 郎右衛門といふ者の女房、小賢しき女にて、盛次が女房を語らひ、浴衣・帷子・小袖なんどの、旗差物にならんをば、町々に解きて、夫々に拵へ、わざと朧げ に、塀の陰・茂みが隙に立並べて、幾らともなく、東風吹く風に閃きけるを、寄手、上田原より遙に見上げ、さても、伊南中に、斯る大勢のありぬべしとも覚え ねば、是は何様、越後勢の籠りたるならんか、大勢の機を助けて勇み進み、軍好みして待懸け居たる所へ、案内も知らで楚忽に攻寄せ、敵の思う図に落ちては如 何にと、未然を機遣ひ、左右なう打つて懸らず、兎角して時刻を移す。漸あつて寄手の先陣、児山丹波守といふ者、混甲五十余騎を左右に進ませ、久川の彼方の 縁へ馳出づる。宮床兵庫は、先月泉田の城にて、数ヶ所手負ひ、其疵未だ癒えざれば、今朝立岩へ向はず、同木工右衛門といふ者も、聊所労あつて、是も宿所に 居たりけるが、不意に敵の寄するとひしめきければ、二人共に為方なく、鎧を着馬に打乗りて、態と大勢の中を抜懸したる振に、馬を早めて、久川の此方の端へ 駈出で、是は宮床兵庫・同木工右衛門と申す者にて侯。寄手の人々の御名は誰ぞ、承りたくこそ候へと、高声に名乗りければ、黒なる馬の逞きに乗つたる武者只 一騎、向の川端へ駈出で、是は湯田釆女にて侯と名乗る。兵庫聞きて、扨は事珍しう、伊達方の人々に、見参申す事かとこそ思ひ候に、何時も替らぬ田島勢にて 渡り候かと、会釈もしあへず、弓に矢取つて打番ひ、能引いてへうと放ちたりければ、其矢過たず、湯田が傍に控へたる歩立の者を一人射倒す。同木工右衛門 は、透間あらせず、鉄炮を打懸けけるに、矢を負ひ玉に当りて、七八人矢庭に討たれければ、敵も左右なう川を渡して、小勢を中に取籠めて討たん事は、いと安 かるべかりしを、只遠矢に射殺さんと、矢軍計りして、時刻を移したるは、是れ何様、後陣の大勢の城中に控へ入りて、深き方便もやあらんに、楚忽に川を渡し ては、項籍が成皐の敗も先轍なりと、思ふ仔細なるべし。去程に、久川へ敵の寄せて、事難儀に及ぶ由、立岩へ聞えければ、すは大事の出で来ぬるはとて、馬の 逸足を出して、我れ先にと引返しけるが、敵陣の相支へたるを見懸けて、同時に川を渡し、抜連れて入乱れ、申の刻の始より、酉の刻の下り迄、散々に軍す。河 原田左馬允といふ者は、寄手の内、小檜山解勘由といふ者と、馳並びて引組み、首取つて差上ぐる。敵、是を見て、無念にや思ひけん、二人一同に、面も振らず 切つて懸る。左馬允既に、危く見えける所に、味方に馬場勘兵衛という者在合せたりといふままに、手緊しく打つて懸り、終に又、敵一人討取りける。斯くて日 暮れぬれば、互に相引きて、手負・死人の着到付けて見るに、盛秀が方に、討死五十人・手負百人に余れり。盛次が方には、討死二十人・手負二十五人と記す。 斯くて盛秀が勢、其夜は古町に陣取り、終夜用心緊しうして居たりけるが、一日戦ひ暮して、上下皆草臥れぬれば、更行くに従ひて少々油断し、眠り居たる所 に、盛次、甲斐々々しき足軽の者を、三十余人勝り、城中より密に出して、盛秀が陣屋近き在家に火を付くる。折しも北風烈しく吹いて、余炎十方に飛移りけれ ば、夜討の入りて火を付けたるはとひしめき合へり。其間に渡辺九郎兵衛といふ者、甲斐々々しく走廻り、鞍置馬の引立ちたるを、盗み出して打乗り、此馬、明 日の軍の用に立たんと存じ、敵陣より無理に所望申して候、此狼藉の程をば、必ず明日の軍に式体申さんぞるぞと、高らかに匐り、逸足を出して城中へ北(に) げ帰りければ、希代の挙動したるよと、盛次深く感ず。斯くて城中の面々僉儀するは、推量するに、盛秀、今夜に腹立には、夜明けば、未明より寄せ来るべし。 さあらば敵を思う図に引寄せ、大石を転し落し、色めく所を、散々に射殺さんものをと、坐に評定する内に、春の短夜は早や明けぬ。去れども思に相違して、ま だ東雲の頃より、敵漸々に引退く。城中より此由を見て、すは敵の落行くは、それ、面々に追懸け出で、余さず、討取れと躁(さわ)ぎ渡つて、勢を二手に引分 け、一手は只見大炊介・佐藤源介を大将として、其勢二百余騎、川を同時に渡して、喚いて駈くる。一手は川の西の縁を、直様に馳連れて急ぎけるが、中にも、 宮床四郎右衛門・同兵庫・同木工右衛門・馬場弥次右衛門などいふ者共、正先懸けて、折あらば川を渡し、敵の落行く先を遮つて、正中に取籠め、前後より揉合 ひて勝負を決せんと、殊に逸足を出して追懸けけるが、大橋の辺にては、同時にさつと川を渡さんとする所に、盛秀が勢、川の彼方に踏止まり、鉄炮百余挺、筒 先を一面に揃へて放ちければ、左右なく渡さざりけるが、先程川を渡したる勢、敵に足をためさせじと喚いて懸れば、寄手は後よりも、敵の続いて追懸くるを見 て、耐らずばつと北げ行く所を、川より西を駈のる勢、一文字に川を渡し、先陣と一つになりて、光明院塚・いらえが崎の辺にて敵に追付き、懸けつ返しつ六七 度、火出づる程、軍して時刻を移す。其間に盛秀は、早駒戸を打越えければ、踏止まりて軍する者共も、跡より追々に北ぐる所を、続いて手緊しく追懸け、光明 院塚と中小屋との間にて、首百余討取りぬ。盛次が方にも、大桃右京・芳賀某などいふ者を始として、宗徒の者二十七八騎、所々にて討たせければ、窮寇の返討 たん遠慮をやなしけん、中小屋を越えず引返しけり。

[出典]
http://www.geocities.jp/rockfish384/tatakai2.htm

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