2014年12月11日木曜日
管窺武鑑
管窺武鑑
管窺武鑑は、全巻を上中下の三巻とし、更に、各巻を上之上、中之中、下之下と分巻し、計九巻として、各巻の下に合諺集と記しています。(一名上杉記、謙信記とも云)
管窺鑑下之上七巻
景勝公佐竹より頼み来り、奥州会津へ御手遣、所々御手に入れらるる事
第一、常陸国佐竹義重より、越後御清水部別当を頼み、佐渡へ頼み越し申さるる趣は、某次男会津葦名盛氏養子に遣し、盛高と名乗り候。然るに前代より、伊 達と葦名と矛盾にて弓箭を取り、会津家、後を取らざる所、代替になり、伊達政宗より押掠め、防戦を遂ぐるといえども、盛高小勢、其方へ加兵を乞ひ候へど も、当地よりは程遠く、其上、近隣の敵と矢箭を取り候故、人数不足に候、貴方は御大身と申し、会津の隣国といひ、殊には佐竹家も会津家も、謙信公の時は、 御幕下にて候へども、近年障隙せられ、音絶に相成り候。此儀御免あつて、盛高方へ御加勢を出し、先規の如く御幕下になさるべく候。盛高は猶以て、御被官同 意に思召さるべく候。此趣、少しも偽之なく候と、罰文を以て申越され項。景勝公御返答に、其頃日、佐渡へ出陣、一国恙なく斬随へ候へども、其仕置等の為め に、今滞留候。当地隙を明け候はば、又余国発向の望之あり候。殊に盛氏より以来今に至つて、会津より某へ敵対に候。然りと雖も、今般御手前より頼み越され 候を、承知せしめず候はば、弱を見捨つる事、武道の本意にあらず候間、近日加勢を遣すべしと仰遣され候。然れども火急の儀にもあらず、八月十五日前は、放 生会の祭礼、出陣を厭ふ越後家の定法なり。
是に従つて、八月十六日会津加勢衆発馬、其面々は藤田能登守・安田上総介・須田右衛門並に佐藤甚助に、植田三庄の小身衆を、相備に仰付けられ、さて又、小 澤大蔵・横田大学両人は、会津牢人なり。両人ともに、会津の内にて一城の主なるが、葦名盛氏へ楯を衝き、打負けて立去り、本意を頼み、景勝公へ来る故、召 置かれたり。此度、小澤大蔵には、刈輪衆少々差添へられ、大蔵地白に黒下猪小繚を持たれ候、横田大学には、御旗本組少々差添へらる。右両人、藤田・安田・ 須田三備の前駆となり、案内御導の為めなり。附、横田大学は、会津浪人仕り、権現様へ頼み来り居り候へども、会津へ本意近々は罷成るべき様子これなき故、 御暇申上げ候へば、権現様種々御引出物下され、上意に、越後は、会津へ山一つ隔て程近く、本意なり易かるべし。景勝を頼み候へとて、則ち本多佐渡守より、 直江山城守へ書状相添へ、大学持参仕り候なり。右加勢の兵、佐渡より越後の出雲崎へ漕戻り、志多田といふ所へ懸り、藤田・安田・須田三備は八十里越、小澤 大蔵は津川越、佐藤甚助は、上田衆と共に六十里越を仕る。陣堅の場は、会津多田美台と相定むる。然るに、早会津盛高は、伊達政宗に押倒されて、佐竹へ逃帰 り、政宗、会津を残らず切治めらる。
其跡へ越後加勢衆著し候。士大将衆申談じ候は、斯くの如く押向ひ、盛高没落なればとて、引返すも如何なり。所詮政宗と一戦を遂げ、横田・小澤を本意さすべ しとて、陣堅の場多田美台は、山谷二つ隔てたる故、相図を定め、八月十九日の昼、遠き方より先へ押出すべしとて、多田美台を前に当てて、此方の山に取備し て勢揃をし、其日は何れも陣取り、明くる二十日相働く。其手分は、
一に、小澤大蔵は旧領小澤へ相働く。
二に、藤田・安田・須田三備は、横田大学を案内にして先手とし、多田美より向ひ、横田・伊奈へ懸つて働き入る。
三に、佐藤甚助は、伊方へ取詰め働き入る。
政宗衆、其所々未だ堅固に踏定めぬ境節なれば、何れも相談するは、隣国案内の景勝衆多勢にて、山手を取敷き、諸方より此方を見下して働き入る。景勝公も佐 渡より帰国せば、先手の一左右次第に、出勢せんとの風聞なれば、防戦六箇しく候べし。其時引取らば、世上にて敗軍と沙汰すべし。這回、盛高を押倒したる一 手柄を、世の面目として、先づ人数を引揚げ、景勝勢に入代らせ、其虚を伺ひ、後途の勝利を完うすべしと、評議一決して、前の夜、政宗衆退散す。此故に、越 後衆乱れ入りて、伊奈・伊方・横田・多田美・小澤を初めて、其邊九十貫余の所を、何の造作もなく斬取つて、景勝公へ註進仕るなり。玄に因つて景勝公より、 佐竹義重へ使礼を以て、其方より頼み越さるるに依つて、会津へ加勢を遣し候所、盛高、援兵を待たず没落の仕合、此非に及ばず候。去り乍ら、家来の者共覚悟 を持つて、数箇所切取り候間、盛高の相働き追散らし、伊達帰参本意然るべく候と、仰遣され候へども、十月初め迄は、会津に、佐竹より働の沙汰之なし。此故 に、小澤城には、小澤大蔵本領安堵仰付けられ、横田城には、横田大学安堵、伊奈・伊方に御掻揚城を取つて、伊奈に色部修理、伊方には佐藤甚助を差置いて、 伊達の抑仰付けらるるは、ゆくゆく奥州へ御発向の時、兵糧運送の為めとて斯くの如し。藤田・安田・須田、十月十六日、春日山に至り帰陣仕り、夏目舎人も藤 田備に列参仕り、委しく覚えて之を語り候。
第二、景勝公、九月初め、佐渡より御帰陣なされ侯。会津に於て相働き候様子、三人の士大将衆言上仕り聞召さる。尤も佐渡の於ての軍忠、大小親疎遠近の隔なく、明生に賞罰仰付けられ候。
附此後、天正十八年庚寅、小田原落居の後、太閤秀吉公より、蒲生氏郷、会津拝領の時、秀吉公より景勝公へ仰越さるるは、先年伐取り給ひたる会津領の内、蒲 生氏郷へ相渡され給ひ候へ、替地は追つて遣さるべき候とあり。景勝公より御返事に、相心得候、替地の事は、明跡次第、何時にても苦しからず候。横田大学・ 小澤大蔵此両人は、数年某を頼み、本意を心に懸け、某が陰を以て安堵仕り候間、今迄の如く其旧領に差置き候。氏郷へ相渡し難く候との儀なり。太閤、尤もと 思召し、其趣、氏郷へ仰付けらる。故に横田・小澤、別條なく其地を踏んで居住、後迄斯くの如し。
武鑑下之中八巻舎諺集
景勝公御持会津領の内、伊原、伊法、横田、ただ見、小沢、武ハ赤谷、比他所々氏郷へ之を渡さる。但し、小沢大蔵、横田大学両城は、景勝御手柄を以って、両人本意付けらるる
上杉三代日記
慶長三年三月、会津百五十万石給はり入部。其後、蒲生秀行家中、仔細ありて二つに分れ、騒論に付、秀行は、宇都宮十八万石にて遣され、其迹へ景勝入府。越 後は、貞治二年、上杉民部大夫憲輝入部より、慶長三年まで、二百三十五年、越後国領知し給ふなれども、是非なし。慶長四年、家康公、利家・秀家・輝元・景 勝五行と騒論あり、景勝、同年神□原新地を立ち諸牢人を抱へ、諸将を入れ置かる。
上杉将士書上(横田大学の記載あり)
慶長三年、会津五十万石へ、景勝所替に付、所々手置き候節、謙信此方武功の家臣等も病死に付、手薄に之有候間、蒲生家の牢人召出し候。
一、 栗生美濃守、外野池甚五左衛門、岡野左内、布施次郎右衛門、北川図書、高木丹下
青木新兵衛、高木図書、安田勘助、小田切新左衛門、横田大学、正木大膳、武倉隼人、
長井善左衛門、深尾市左衛門、堀源助
二、関東牢人 山上道及(首供養度仕候由)上泉主水(武州深谷城主上杉憲盛の老臣)
車丹波守(火車の指物)
三、上方牢人 水野藤兵衛 宇佐美弥五右衛門 前田慶次郎
外数十人抱へ候へども、竝々の者に付、除き申候。此慶次郎、加賀利家の従弟に候。
[出典]
http://www.geocities.jp/rockfish384/tatakai4.htm
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