2014年12月12日金曜日
村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。
文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれる。永正12年(1515年)3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とす。尤も、父の顕国は支配下にあった小川氏が背いたため隣接地の高坂氏と大日方氏にこれを撃たせたと伝えられるが、他の事蹟が明確ではなく、このため家督継承前後の義清の動静も明確ではない。永正13年(1516年)3月、従五位下に叙位。佐渡守に任官。永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて家督を相続し、当主になったという説はあるものの、一方、父の顕国が死去したのは大永6年(1526年)という説もある。
当時の村上家は、北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐の武田氏と抗争を続けていた。義清は佐久郡を武田氏に奪われるが、武田信虎・諏訪頼重と結んだ海野平の戦いにおいて、海野棟綱・真田幸隆らを駆逐して、小県郡を完全に掌握することに成功している。大永元年(1521年)10月、従四位下に昇叙し、左衛門佐に転任。大永7年(1527年)1月、左近衛少将に転任。天文5年(1536年)1月、正四位上に昇叙。
信虎を追放した武田晴信(武田信玄)の攻勢を受け、天文17年(1548年)、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰、才間河内守などの部将を失うことになった。
天文19年(1550年)、義清が高梨氏と戦っていて本領を留守にした隙に、晴信が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、晴信は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田勢を追撃し、大勝をおさめた(砥石崩れ)。この戦いで武田方は横田高松、渡辺雲州を始め、1200名の死傷者を出した。村上方の死者は193名ほどであったといわれる。
晴信はこれ以降、家臣の真田幸隆に命じて、村上勢の武将切り崩し調略を強化する。その結果、天文20年(1551年)には幸隆の謀略により砥石城を奪われる。砥石城の足軽大将・矢沢薩摩守(幸隆の弟)が幸隆に内通していたためであった。これにより義清の影響力は一気に低下し、天文21年(1552年)の常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺は抑え難く、天文22年(1553年)、武田氏に通じていた大須賀久兵衛が謀反し、また室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏したため、義清は4月9日葛尾城を一時脱出。再度体勢を整え、4月22日には奪還に成功している。武田晴信は深志城に後退し、5月11日には甲府に引き上げた。
しかし晴信は7月25日に大軍を率いて甲府を出発、8月に義清は窮地に追い詰められた。抗戦能力の無くなった義清は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びていった。北信濃の独立勢力であった村上氏の没落により、武田家の勢力が越後長尾氏と関係の深い善光寺平にまで及んだことが、この後に続く川中島の戦いへの導火線となった。
その後、義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となる。国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。
元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城にて病死。享年73。仇敵・信玄の死の5ヶ月前。日滝寺に葬られたというが、その墓所については根小屋地内の安福寺とも言われ、魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。
天正10年(1582年)に武田勝頼が自害し、甲斐武田氏は滅亡する。義清の嫡男・国清は8月5日に海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。
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