2014年12月20日土曜日

「橋爪の歴史」


「橋爪の歴史」







ご祭神の生前のお名前については、『養老郡志の編著者で橋爪の生んだ大学者であ
たの かわかっ る大久保休吾氏が、大正年聞から昭和初期にかけての研究で、秦河勝公であると推定さ
しんせんし うじろく れたが、最近数年間の調査研究によって、古事記・日本書紀・新撰姓氏録などの古い書
はたはたのきけのきみはたのみや AVこ さ 吋
物にあらわれる秦氏の祖先、秦酒公 (秦造酒)であり、その子孫で著名な河勝公をも
合杷せられている事が、ほほ確実視されるようになった 。 

氏は古代中国の秦の始皇帝 (の長城を造った人 BCO)世孫、孝武王
出たが、秦滅亡後、子孫は朝鮮半島に逃れ秦韓という国をつくったが秦韓もまた滅
亡、更に遺民は日本に渡来した ゆっきのきみ
秦氏の子孫、弓月君 (融通王)族を連れて大挙我が国に移住したのは、 五代応神 天皇の御代と前述の古書は云う弓月君は百済より帰化したが、その数は 一二七県九
種一八六七 O人、七 O戸で、これを国郡に分置して養蚕や絹を織る仕事に当たらせ


の酒公は百八十種勝をひきいて、上等の絹織物を庸調(租税の一種)として朝廷に多
うずまき
量献上したので、百円豆麻佐(ウツマサ後に太秦)の姓の賜ったと日本書紀にある(百八十種
は多種多様の意味であろう勝は諸説があるが令制の伴部にあたる下級管理職か) く に ほ ん ぎ
それ以来秦氏は古代の名族として記紀はもちろん、奈良時代の続日本紀には五三回も 登場している。
きんめいびだっょうめいすしゅんすいこ
秦氏の後育の秦河勝朝臣は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古の五朝に仕えて功績があ
り、特に宮中神楽の制定と会計制度の確立に力を尽くし、また熱心な仏教徒であり、聖
ちょうあい
徳太子のご寵愛が深かった。
推古女帝の摂政が聖徳太子で、推古一一年
(六O三)一一 月に太子より河勝公に仏像を
賜わり蜂岡寺(後の広隆寺)を造って奉納している(日本書紀)
ぜん
このことについて永久四年 (一一一六)三善為康が撰した朝野群載の承和五年(八人) 一二月広隆寺縁起には「推古一一年冬に仏像を受け、推古三 O年に聖徳太子のために河
勝が建立した」とある


■秦民と垂穂郷


秦の民を多数この地に配置した理由は何であったろうか。国郡に分置するのは中央政 府の方針だったが、異国の 族をあまりに少数ずつ分散しては言語習慣の違いが生活に 困難をもたらすので、かなりの数であったろうそれだけに美漉に割当てられた秦民をどこに置くかには、国府の役人も困ったと思われる 当時の美濃の中心は西濃で、国府(いまの県庁)は垂井町府中にあった 国府の無い時
代も東国への出入口にあたる西濃は政治文化で重要な地位を持っていた 府中より橋爪までは二里程度 (約八キロ)、速からず近からず監督も可能である低湿
たてあな
でないので竪穴住居も建設しやすい 古橋爪は大和・伊賀・伊勢より東山道や国府に通ずる主要道の伊勢街道に沿い、水利
がよく、しかも水害に遭うことも少なく、移住の先進文化を持つ秦民族が生活を営むの
に最も適当な場所と考えたのであろう。田畑や家屋の水没の恐れの少ないこの地は、朝
廷に奉献するための養蚕織絹にも有利であったろう古橋爪に秦の民が居住していたと思われるのは、篠塚神社の由緒だけではない 奈良
らい んう ぱそくこうしんげ にある正倉院文書中の寧楽遺文に優婆塞貢進解があるが、その一通に「秦公豊足年廿九、
たぎ
美濃国当曙郡垂穂郷三宅里戸頭秦公磨之戸口」とあり、天平四年(七 三二 )三 月二五日の
日付が記載されている

(中略)

ところで、ここに居住していた秦の民はいずこに消えたのだろうか そもそも、固有の日本民族なるものがあった訳ではない アイヌ、蒙古、朝鮮、南方 中園、北方中園、タイ、ベトナム、カンボジアなどの混血融合した人々から日本民族は 成立したと云う秦の民も長い歴史の過程で何百回の混血を繰り返しながら、日本民族
の中に埋没していったのであろう



五. 古橋爪(橋詰) の 所 在 地

むかしの橋爪はどこにあったのだろうか





[出典]
http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/36hasidumenorekisi.pdf


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