戦国期から見える村名出羽国秋田郡のうち秋田市街地東部の手形山南端に位置し,蛇野【へびの】の東に接する太平【たいへい】川の氾濫などによって生じた赤
沼と呼ぶ沼沢が存在(秋田の今と昔)鎌倉初期橘(小鹿島)公業領に「やなぎた」があり(小鹿島文書),それは柳田であるから当地もその範囲内であったと考
えられる文禄元年8月22日「秋田家分限帳写」に館岡半兵衛代官所の管内として「赤沼村」33石余とある(秋田図書館所蔵文書)きわめてまとまった形の村
落であったと考えられる江戸期は広面【ひろおもて】村の枝郷名秋田藩領「享保郡邑記」には谷内佐渡【やないさと】・樋口【とよのくち】とともに広面の枝郷
で21軒正保元年以前は戸数2軒しかなく,同3年の検地の段階から枝郷の扱いとなる「秋田風土記」でも谷内佐渡・樋口・二ツ屋とともに広面村の枝郷久保田
城東の前哨地点でもあり,佐竹義敦の代この地に雪見殿が設けられ,跡地に慶応4年太平野田【のだ】東光院系の太平山奥宮遙拝所が建てられたそれが次第に発
展大きな神社となる昭和16年からは秋田市広面字赤沼となる三吉神社の正月の梵天奉納は秋田の代表的祭礼となっている..
[出典]
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