2014年12月4日木曜日


余市りんごと会津人の困難(北海道・青森・福島)

 厳冬の下北を、一度は訪ねてみるといい。雪は足もとから吹き上げてくるのだ。海は荒れ、一寸先の風景は白く塗りつぶされる。人びとは声をひそめ、身を屈めて、不遇の時を耐える。百十余年前、会津は厳冬の中にあった。
(『斗南に移された人たち 北辺に生きる会津藩』会津歴史資料館表紙より)
前出の冊子に「会津人と余市苹果」の項があった。りんご(苹果)と言えば青森・長野県のイメージ、「余市りんご」を知らず会津人との経緯にも興味がわいた。
 はじめに余市を検索したら『逓信畠の先輩巡礼』(北海道余市局で電鍵を叩いた文豪・幸田露伴博士――内海朝次郎著1935交通経済出版部)があった。  露伴を好きなのでちょっと寄り道する。

 のちに文化勲章を受けた露伴だが18歳の1885明治18年電信修技学校を卒業、北海道後志国(しりべしのくに)余 市に電信技手として赴任した。余市で3年近い孤独生活をあまたの読書で耐え、辞表を出すも受け入れられず職を放棄し北海道を離れた。陸路を徒歩で福島に行 き、そこから汽車で東京に帰り、父や兄の不興を蒙りながらも小説を書きはじめた。以来、知る人ぞ知る活躍、深い教養、該博な知識、洗練された文章により業 績を残した。
 露伴「突貫日記」は余市が主舞台。
 さて露伴が生まれた1867慶應3年大政奉還、翌年戊辰戦争となり戦いのさなかに明治と改元された。1869明治2年会津若松城落城、会津藩は処分されたが3万石で立藩(斗南藩)が許された。
 領地は青森・岩手両県の一部、のち北海道後志国胆振(いぶり)の一部。23万石から3万石、それも実高7千石ではとうてい旧藩士を養えない。新政府は北海道開拓に、謹慎中の会津人を送り込もうとした。
 北海道に渡った会津人は220余戸、700人ほどで、第一陣は *兵部省係員の引率で新政府雇のアメリカ船 *ヤンシー号に乗船、品川を出港し慣れぬ船旅に苦しみながら小樽港に着いた。彼らは兵部省斡旋の借家に入り寒さに耐え、農業授産の施策をまった。

 北海道開拓と経営の行政機関として開拓使が設置され、北海道と樺太を管轄していたが、開拓使と兵部省の仲が悪く、兵部省管下の会津人は北海道開拓の援助を受けられないでいた。折しも樺太開拓使が独立したので会津人は樺太開拓を目指すことにし、受け入れ体制が整うまで一時、寄留地として余市に移る事になった。
  *兵部省: 陸海軍、郷兵召募、守衛軍備、兵学校を管掌。
  *ヤンシー号: 会津人乗船の報告なのか不明だが、ヤンシー船について岡本監輔(カラフト開拓)が大隈重信に宛てた書簡が早稲田大学図書館にある。

 
 1871明治4年、小樽の200所帯のうち半数が、荷物は船で、人間は余市まで24キロを歩き通して現地入りした。ところが、移転が終わると同時に樺太開拓使が廃止となり北海道開拓使に統合された。東京にあった開拓支庁を札幌に移し、10カ年計画で御雇外国人を導入して本格的な開拓を開始したのである。
 会津人はもともと北海道より寒さ厳しい樺太移住を願っていたわけではなかったから、余市に踏みとどまり開拓使の援助を受けることにした。
 
 旧会津藩士たちは武家屋敷とは比較にならないものの共同浴場付の小屋が確保され、会津部落建設に取りかかることにした。余市で農業授産によって生計を立てることを願い、自治組織を整え、子弟教育の為に日新館を再建した。いっぽう下北の斗南藩はこれより早く移住も落ち着かないうちから「斗南藩学校日新館」を開設していた。
 余市。『小樽区外七郡案内』(山崎鉱蔵著1909)より
―――余市郡は小樽区の大郡にして、漁業に農業に後志国地名の地たり
―――余市の名はアイヌ語イウオチにして温泉あるの義なり、余市川の上流温泉多し
―――明治4年会津藩士を移して黒川、山田2村を開き、さらに富沢町を設く


     余市苹果(りんご)の沿革

  1874明治7年、開拓使庁より黒川村農会社に苹果、葡萄、梨、洋李(すもも)などの苗木、数百本を交付せられ、同会社はこれを苗圃に移植し適否を試験し た。翌年また500本の苗木を各農家に数本宛配布試植せしめた・・・・・・山田村の百瀬、船橋両氏の果園には配布の苹樹の結実するを見る。
 (『最新北海道苹果栽培実説』鈴木真著1916余市病理研究所)。
 北海道開拓使では無料でりんごをはじめ各種苗木を全道の農家に配布したのであるが、開墾会社に植え付けられたりんごの苗木も放置状態であった。黒川、山田両村の会津人もりんご栽培の経験などなく、

――― 各戸に配られた苗木を、ただ畑隅または庭先などに植え殆ど顧みなかった。ところが、1879明治12年「偶々山田村赤羽氏の庭先にありし19号、金子氏の 畑隅にありし49号・・・・・・粒形肥大紅色鮮やかなる数個の結実を見る。又、金子氏畑隅にありし樹にも粒形中赤縞条点ある堅き実を見るに至れり。49号 なり。
 札幌の共進会に参考品として出品、風評大いに広まる。

―――りんごの結実は、漁場や道路工事で日銭を稼ぐなど、士族の意 識をかなぐり捨てて生活の為に奮闘しつつあった会津人たちに大いなる希望を与えた。以後、余市に残留した会津人たちはりんご栽培に力を入れ明治20年代 (1887~)には、余市に本格的なりんご園を形成、努力が報われた
 (『北辺に生きる会津藩』)。
――― 今の余市。余市で名高いのはリンゴと鰊です。果物や米の産地は山田村・黒川町方面で、米は旭川米にもまけない程のよいものがとれてゐますが、ことにリンゴ は本道第一で赤いリンゴが枝も折れんばかりに実ころはきれいです。19号は余市の特産ですが、49号・6号・14号もよく育って近年は年産額90万円こえ た時もありました
 (『余市町地理読本』昭和11年北海道教育研究会)。
ちなみに青森県のりんごは1875明治8年内務省勧業寮から配布を受けたのが始まりで余市りんごより早い明治10年結実をみている。この勧業寮系統の青森りんごと、開拓使系統の余市りんごは、互いに品種の改良などによって品質を競い合い声価を高めていった。
 また、山田町の入り口にたつ開拓記念碑、藩の責任を負い切腹した家老・萱野権兵衛の碑が会津人の苦闘を今に伝える。


[出典]
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/01/post-132c.html

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