高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
平安末期から源平合戦
高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、井上家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦(治承・寿永の乱)の際は井上一族では無く安曇郡の仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。しかし、高梨氏は仁科氏と同じく中原兼遠の婿になっていたので[要出典]、この婚姻関係によって執るべき軍事行動が変化(男系親族井上氏に従わず、外戚中原氏へ加担)したということも考えられる。高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城助職率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。
南北朝時代
続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部河原、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。正平11年/延文元年(1356年)、上杉憲将の支援する市河氏と戦い、小菅荘(飯山市)まで勢力を伸ばした。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争、越後の南朝方上杉兵庫助との牧城における戦いにも高梨五郎・高梨時綱らの名が見える。室町時代中期
更に応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。この戦いで高梨朝高の名が見える。その次男は善光寺後庁にある在庁官人の介職として上条介四郎と名乗った[1]。応永10年(1403年)に細川慈忠が幕府料国となった信濃国に「大将」として入国した[1]際には、村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦って敗走させた。翌年12月には幕府代官の所領実態究明を拒む高梨左馬助朝秀とも合戦となって桐原や若槻、下芋河、替佐、蓮、東条などを転戦した。また朝秀は上杉禅秀の乱後に将軍足利義持と公方足利持氏が対立すると、将軍方に立って関東に出兵している[1]。
このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功していた様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている[2]。
地理的に近い越後にも所領があったことから越後の勢力の影響を高梨氏も受けるようになる。寛正4年(1463年)12月に、信濃半国守護職を得た越後守護上杉房定の一族上杉右馬頭が高井郡高橋(中野市西条)に攻め入った際には、高梨政高がこれを討取っている。また応仁3年(1468年)には隣接する井上政家と狩田郷の領有を巡る争奪戦を演ずるなど高梨氏は村上氏と共に、北信濃の一大勢力として認識されるようになる。
戦国時代以降
高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘(政盛と能景は同年代であるため、政高の娘である可能性が高い)を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。また明応4年(1495年)には善光寺を巡って村上政清と争いとなり善光寺を焼失させた。政盛と澄頼はこの時に同寺の本尊を本拠地に持ち帰ったとされ河東善光寺縁起(南照寺)にあるものの悪病の流行で3年も経ぬ内に返還したとされる。永正4年(1507年)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め島津氏や栗田氏、海野氏ら北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、高梨氏に討たれて没落していた中野氏の牢人・被官に混じって高梨一族が高梨宗家に対して反乱を起こして村上氏支配地の小島田(長野市)に集結した。以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555 - 1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、織田信長から北信濃を任された森長可が本能寺の変により僅か二か月で撤退、代わって上杉景勝が進出する(天正壬午の乱)のに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
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