2014年12月12日金曜日
弘治3年(1557)正月~3月 長尾景虎 【28歳】
正月20日、信濃国更級八幡宮(更級郡)に宛てた願文を認め、「隣州国主」として信州の安寧を取り戻すために甲州武田晴信を打倒する決意を表し、この立願が神助によって成就したあかつきには、信州に於いて一所を寄進することを誓った。
2月16日、在地の色部勝長(外様衆。越後国平林(加護山)城主)に宛てて書信を発し、信州陣については、一昨年に駿 州今川義元の御取り成しにより、無事が成立したにも係わらず、懸念していた通り、甲州武田晴信が策動を始めたので、はなはだ不愉快な思いをしていること、 神慮といい、駿府の御取り成しといい、此方からは手出しするべきではないとの思いから、ひたすら堪忍していたところ、このたび武田晴信は計略をもって、信 濃味方中である落合方の家中を引き裂き、彼方の拠る葛山(水内郡)の地を攻め落としたこと、このために同じく味方中の嶋津方(忠直)は、何はさておき本城 の長沼城を放棄して支城の大蔵城(ともに水内郡)に後退せざるを得なかったこと、もはや我慢の限度を越えたので、爰許の総員を彼の口へ急派し、景虎も半途 に在陣中であること、雪中ゆえに御面倒ではあろうが、昼夜兼行での御着陣を待ち侘びていること、信濃味方中が滅亡してしまっては、当国の存亡も危ぶまれる ので、今般は相応の人数を整えられて、ここぞとばかりに御精励されるべきであること、これらを懇ろに伝えた。
これより前、能州畠山悳祐(義続)・同義綱父子から、内乱(年寄衆の神保総誠・温井続宗・三宅総広らが、畠山一族の畠山晴俊を擁して挙兵した)を鎮圧するための支援要請を受けるも、信州出陣を予定しているため、援軍の派遣を丁重に断り、兵糧の援助のみを請け負うと、18日、 畠山悳祐(義続)・同義綱から返書が発せられ、再び飛脚を派遣すること、このたび返札を始めとした様々な厚意を受け、感謝の言葉もないこと、いかにも累代 の交誼に変わりないので、めでたく喜ばしいこと、ますます当城(能登国七尾城)は堅固なので、安心してもらいたいこと、今般の事情については、何度も申し 伝えており、ここでは敢えて触れないこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がったこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成 をもって本意を達する以外に仕様がないかも知れず、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、是非とも加勢を派遣してもらいたいこと、別紙を もって条々を申し伝えること、よって、これらを取次の遊佐続光が詳報することを伝えられている。
同日、畠山悳祐・同義綱父子から、取次の山田長秀(旗本衆)に宛てて書信が発せられ、取り急ぎ飛脚を派遣したこと、当方の籠城について、このたび景虎から 厚意を示してもらったゆえ、ひたすら喜んでいる旨を申し伝えてほしいこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がり、めでたく喜ばし いこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないと思われ、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、速 やかに加勢を派遣してもらいたい旨を申し伝えるものであり、其方(山田長秀)の取り成しに期待していること、よって、これらを遊佐続光が詳報することを伝 えられている。
23日、能州畠山家の年寄衆である遊佐続光から副状が発せられ、去る頃は御返書ならびに御厚意を給わり、感謝の言葉も ないこと、今もって当陣に別条はないこと、糧物の援助を請け負って下さり、何はさておき歓喜していること、御加勢については、このたび越国は信州へ進攻さ れるため、御同意を得られなかったのは、やむを得ない事態であること、しかしながら、是非とも高徳をもって、その多寡に係わらず一勢を派遣してもらいたい との思いから、当国父子が直書と条書にて申し入れられたものであり、早速にも御同意を得られれば、まさに当家再興にとっては主要であること、ここを十分に 心得て申し入れたこと、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、委細を飛脚の金台寺に申し伝えてほしく、彼の者の帰国を待って談合するつもりであ ることを伝えられている。
3月18日、返報を寄越してきた色部勝長に宛てて返書を発し、信州陣について、わざわざ御切書を寄越してもらい、祝着 千万であること、再三に亘って申し伝えた通り、このたびは甲軍と興亡の一戦を遂げる覚悟であること、ここが正念場であり、ひたすら速やかな御参陣を待ち侘 びていること、漸く景虎も出陣できること、其許(色部勝長)の御用意が整ったとの知らせには、すこぶる満足していること、今のところ信濃奥郡に異変はない ので、どうか御安心してほしいこと、諸事については、対面の折に承ること、これらを懇ろに伝えた。
3月23日、姉婿の上田長尾政景(譜代衆。越後国坂戸城主)に宛てて書信を発し、信州陣については、何度も申し伝えて いる通り、このたびは更に抜き差しならない困難な状況であるため、看過してはならないこと、そのように考えながら、出陣の日取りについて、皆々と談合して いた間にも、信濃味方中の高梨政頼(信濃国飯山城主)から、このまま景虎の信州出陣が遅延するようであれば、飯山城(水内郡)を放棄しなければならないと して、しきりに出陣を求められており、ここで救援を怠っては、いよいよ信望を失ってしまうため、明24日に出陣するので、いつも申し伝えている通り、御面 倒ではあっても、早々に御着陣されるべきこと、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、こちらの様子については、藤七郎方(景国ヵ。政景の弟。越後中郡国 衆・大井田氏の名跡を継いだと伝わる)が詳報することを伝えた。
この間、信府深志城(筑摩郡)に在陣中の甲州武田晴信は、2月15日、信濃在陣衆に命じ、すでに昨年から内通者を得ていた越後方の信濃衆・落合次郎左衛門尉が拠る信濃国葛山城を攻め落としている。
25日、信濃先方衆の原(山田)左京亮・木嶋出雲守(ともに高梨氏の旧臣。信濃国山田城に拠るか)に対して書信を送 り、このほど飯富兵部少輔(譜代衆。信濃国塩田城代)の所へ寄越してくれた注進状によれば、敵勢が中野筋(高井郡)に進出してきた事実を把握したこと、幸 いにも当府(深志城)に在陣中なので、若し敵勢が大軍であるならば、その方面に再進攻するつもりであること、よって、それまでの間、城内を堅守するように 伝えている。
3月14日、原左京亮・木嶋出雲守に対して返書を送り、去る11日付の注進状が、今14日の晩に着府したこと、それに よると、越国衆が当国に侵攻してきたらしいが、元より承知の上なので、いち早く出陣していること、詳細については、その表に着陣した折に面談するべきこ と、其方の存意もつぶさに承ること、よって、これらを飯富兵部少輔の方から詳報することを伝えている。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 140号 長尾景虎願文(写)、141号 長尾景虎書状(写)、142・143号 長尾景虎書状 『新修七尾市史7 七尾城編』 【文献史料編 第三章 未曽有の内乱の中で】 118号 畠山晴俊書状写、119号 畠山晴俊年寄連署奉書写、122号 畠山悳祐・同義綱連署状、123号 畠山悳祐・同義綱連署状写、124号 遊佐続光書状 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 495号 武田晴信書状、531号 武田晴信書状写、533・534号 武田晴信感状、535号 武田晴信感状写、536・537・538号 武田晴信感状、539号 武田晴信感状写、540号 武田晴信感状、541号 武田晴信感状写、542・543・545・546号 武田晴信感状、547・548号 武田晴信感状写、549号 千野靭負尉勲功目安案、550号 武田晴信書状、551号 武田晴信感状
弘治3年(1557)4月~7月 長尾景虎 【28歳】
4月18日、信州へ向けて出陣する。
21日、信濃国善光寺(水内郡)に着陣すると、参陣途中の色部勝長に宛てて書信を発し、このたび善光寺の地に着陣した こと、甲州武田方の山田要害・福島城(ともに高井郡)が自落したので、退去していた信濃味方中が、それぞれ還住を遂げたので、取り敢えず御安心してほしい こと、味方中の皆々から寄せられた事情もあるので、早々に御着陣されるのを心待ちにしていること、まさしく御進陣中であるのは、ひたすら喜ばしいこと、こ れらを懇ろに伝えている。
25日、数ヶ所の敵陣や要害の根小屋を焼き払い、信濃国旭山城(水内郡)を再興して拠点と定め、甲州武田晴信を戦場に 引き摺り出して決戦を挑むための駆け引きを始めると、武田側は和睦(将軍足利義輝から双方に停戦命令が下されている)を含めた様々な働き掛けをしてきたこ とから、今後の推移を見定めるために一旦、同飯山城(水内郡)へと後退する。
5月10日、飯山の小菅山元隆寺(高井郡)に願書を納め、甲州武田晴信が一戦を避けているので、暫く飯山に滞陣していたが、明日に上郡へ進出することを表明し、神助をもって勝利を得られれば、河中島に於いて一所を、末代まで寄進することを誓った。
同日、出羽国の味方中である土佐林能登守(杖林斎禅棟。出羽国衆・大宝寺義増の重臣。出羽国藤島城主)に宛てて返書を発し、このたびの信州出陣に際し、色 部勝長に参陣を要請するため、先頃に使者の野島平次左衛門尉(旗本衆)を瀬波(岩船)郡に派遣した幸便をもって音信を通じたところ、御懇報が寄せられたの で、まさに本望満足であること、先月18日に信州へ向けて出陣すると、同25日には、数ヶ所の敵陣と根小屋を焼き尽くし、旭山要害を再興して本陣を据えた こと、この上は、ひたすら武略を駆使して武田晴信を引き摺りだし、彼の軍勢と一戦する覚悟を決めていたところ、敵地から様々な和平案を提示してきたので、 一先ず静観していること、御承知の通り、今なお爰許は抜かりなく堅陣を維持しているので、御安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えた。
12日、犀川を越えて香坂(埴科郡。海津のことらしい)の地を強襲して周辺を焼き払う。
13日、坂木・岩鼻(ともに埴科郡)の両地を蹂躙したところ、一・二千ほどの武田軍前衛が姿を現したので、迎撃態勢に入ったが、相手が後退してしまい、捕捉するには至らなかった。
こうしたなか、飯山城の高梨政頼から陣中見舞いの飛脚が到来すると、15日、すぐさま高梨政頼に宛てて返書を発し、当 口の戦陣について、このほど御飛脚を寄越されたので、すこぶる満足していること、去る12日に香坂に攻め込むと、彼の地一帯を焼き払ったこと、翌13日に は板木・岩鼻の地を蹴散らしたこと、すると一・ニ千ほどの凶徒が現れたので、一斉に攻めかかろうとしたところ、凶徒は五里から三里も遁走してしまい、打ち 漏らしたのは、実に無念であること、今後については天気が好転すれば、また進撃を再開すること、何かしら異変があれば急報すること、これらを懇ろに伝え た。更に追伸として、先刻にも申し入れた通り、御用件があるため、草間出羽守(高梨氏の重臣)を寄越されるのを心待ちにしているので、今が正念場であり、 大変な御負担であっても御尽力してくれるように頼み込んだ。
その後、飯山以北で武田方に属する信濃奥郡国衆の市川藤若(のち信房)が拠る「野沢之湯」要害(高井郡)の攻略に向かうと、高梨政頼を通じて帰属を勧告した(野沢に赴いたのは草間出羽守か)が、市川藤若に拒否される。
6月11日、再び飯山城へと戻った。
一方、この情報に接した武田晴信は、16日、市川藤若に対して書信を送り、取り急ぎ客僧をもって申し伝えること、去る 11日に長尾景虎が飯山に移陣したそうであること、そして、このたび耳にした風聞によれば、長尾方の高梨政頼が野沢に現れ、其方(市川藤若)と景虎の和融 を持ち掛けたそうであり、こうした互いにとって疑念が生じるような風説は伝えたくはないが、何事も隠し事をしないとする誓約の旨に従い、本心を残らず申し 伝えること、幸いにも当陣は堅固であるばかりか、来る18日には、上州衆の全軍が当筋(信濃国深志城)に、相州北条氏康からは玉縄北条綱成(一族衆。相模 国玉縄城主)が上田筋(小県郡)に加勢として到着するゆえ、日増しに越国衆の威勢が減退していくのは明らかなので、この機会に景虎を滅ぼしたいとの晴信の 宿願を達する決意であり、速やかに出撃してほしいこと、事態の推移により、そのたびに使者を派遣して一切を報知すること、これらを懇ろに伝えている。
23日、市川藤若に対して返書を送り、このたび寄せられた注進状によると、景虎が「野沢之湯」に侵攻し、その要害に攻 めかかる素振りを見せる一方、其方の籠絡を図るも、同意しなかったばかりか、要害の防備を尽くされたゆえ、景虎は何ら成果を得られずに飯山城へ後退したよ うであり、実に心地よく、このたびの其方の振舞いは何れも頼もしい限りであったこと、景虎が野沢に在陣中、飛脚をもって中野筋(高井郡)への援軍要請を受 けたゆえ、加勢として、上原与三左衛門尉(直参衆)に先導させた西上野の倉賀野衆と、当手から信濃国塩田城(小県郡)の在城衆である原与左衛門尉(直参 衆)に足軽衆を始めとした五百名を、中野に在陣する真田幸綱(信濃先方衆。信濃国真田城主)の許に急行させたが、すでに越国衆は退散していたので、無念極 まりなく、いささかも対応を怠ったわけではないこと、こうした事態が二度とないように万全を期して、今後は湯本(野沢)から要請があり次第、当方を通さず に、塩田城代の飯富兵部少輔(譜代衆)の一存で援軍を催す許可を与えたので、御安心してほしいこと、よって、これらを使者の山本菅助(直参衆)が詳述する ことを伝えている。
こうしたなかで、越後国西浜口に侵攻してきた武田軍の別働隊を、急派した越後衆が鉄砲を撃ち掛けるなどして退けた。
この際、武田方の信濃先方衆である千野靭負尉(譜代衆・板垣信憲の同心)は、使者として西浜口の武田軍別働隊の陣所に赴いたところ、越後衆の襲撃に遭遇して鉄砲傷を負っている。
また一方、武田晴信は、自ら信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地に進出すると、7月5日、板垣信憲(譜代衆)を始めとする別働隊をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている。
6日、前線の水内郡で活動する宿将の小山田虎満(譜代衆。信濃国内山城代)に対して返書を送り、各々が奮励されている ゆえ、其許の陣容は万全であるとの報告が寄せられたので、ひときわ満足していること、当口については、敵方の信濃衆である春日(信濃国鳥屋城主か)と山栗 田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)を追い払い、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させたこと、嶋津(長沼嶋津氏の庶族である赤沼嶋津氏)については、 今日中に服従する意思を示しており、すでに以前から誼みを通じているため、別条はないであろうこと、この上は詰まるところ、信濃先方衆の東条(越後に逃れ た東条氏の庶族。或いは武田氏の東条(雨飾城)在陣衆か)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国綿内城主)ならびに真田衆と協力し、敵方の調略に努めるべき こと、よって、今が信濃奥郡を制する好機と見極めており、いささかも油断してはならないことを伝えている。更に追伸として、密かに綱島(更級郡大塚。犀川 河畔)の辺りに布陣するつもりでいたところ、若し越後衆が進撃してきた場合、彼の地は防戦に適していないとする諸将の意見に従い、佐野山(同塩崎)に布陣 したことと、この両日は人馬を休ませたので、明日に軍勢を進めることを伝えている。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 147号 長尾景虎願文(写)、148・149号 長尾景虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 549号 千野靭負尉勲功目安案558号 武田晴信書状、561号 武田晴信書状写、562・563号 武田晴信書状、564・565・566・567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号、武田晴信感状写、571号 武田晴信感状、609号 武田晴信書状写
◆ 『戦国遺文』609号文書の追而書は、同じく第二巻の1410号文書のものであり、引用に一抹の不安を感じるが、本文の内容に問題はないようである。
弘治3年(1557)8月 長尾景虎 【28歳】
先月の信濃国小谷城陥落により、越後国西浜口(頸城郡)が危うくなったので、上田長尾政景(景虎の姉婿。越後国坂戸城主)らを信濃国飯山城に残留させて、 大きく後退したところ、その長尾政景から、同じく飯山城に留めた越後奥郡国衆の安田長秀(政景とは姻戚関係にあると伝わる。越後国安田城主)を通じ、前線 で孤立することへの不安を愁訴されたので、4日、長尾政景に宛てて書信を発し、このたび安田方をもって条々を仰せられ たので、つぶさに御存分を聞き届けたこと、今次の信州陣に御参加されたばかりか、こうして御在留が長引くところに、万が一の事態が発生した場合、決して御 進退を見放さないでほしいとの御存分を、くれぐれも承知していること、このような御懸念は御尤もであること、すでに信州の面々衆と一旦でも結んだ交誼の証 として、今日に至るまでの間、長年に亘る加勢の苦労は並々ならぬものであったこと、まして浅からぬ因縁などがあるにも係わらず、貴所(長尾政景)の御事を 見放せるわけがなく、この存分を書簡をもって安田長秀に詳説したこと、ひとえに貴所の御心腹を頼もしく思っていること、それでもまだ御疑念があるならば、 誓詞をもって示すこと、よって、これらの詳細については、彼方(安田長秀)が雑談することを伝えた。
14日、旗本衆の重鎮である庄田定賢(公銭方)に宛てて書信を発し、はやばやと西浜口に着陣したそうで、その殊勲は紛 れもないこと、彼の口へ諸勢を派遣したからには、綿密に談合して陣容を整えるべきこと、この正念場は方々の奮励に掛かっていること、これらを取り急ぎ伝え た。更に追伸として、これらの旨を皆々に周知することと、取り分け小越と平林(ともに旗本衆)に申し伝えることを促した。
その後、上田長尾政景らが飯山方面に進出してきた武田軍の信濃駐留部隊を信濃国上野原(水内郡)の地で撃退すると、29日、上田衆の南雲治部左衛門尉に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦に於ける並外れた軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せた。
同日、長尾政景が、被官の大橋弥次郎に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦に於ける並外れた軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。
同日、長尾政景が、被官の下平弥七郎に感状を与え、このたびの信州上野原に於ける武田晴信との一戦に勝利した際の見事な軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。
一方、甲州武田晴信は、別働隊が飯山口に進攻して敵勢と交戦したのを受けて、8月15日、東条(雨飾城)在陣衆に対して書信を送り、本日に於ける皆々の奮戦は快然であること、但し、今後は千曲川を渡河する際には、十分に瀬踏みをして軽はずみな進軍を慎むべきこと、この上は皆々で相談し合い、堅実な攻戦を心掛けるべきこと、これらを取り急ぎ伝えている。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 』 135号 長尾景虎書状(写)、150号 長尾景虎書状、152号 長尾景虎感状(写)、153・154号 長尾政景感状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 574号 武田晴信書状写 ※ 松澤芳宏氏のウエブサイト『松澤芳宏の古代中世史と郷土史』 上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説
[出典]
http://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/25ef175faffa4a3014b0d49d6a067961
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