芋川 親正(いもかわ ちかまさ、天文8年(1539年) - 慶長13年(1608年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。武田氏や上杉氏の家臣。芋川正章の子。芋川親守の兄。芋川元親の養父、芋川綱親の父。右衛門尉、越前守。諱は正親とも伝わる[1]。
生涯
武田家臣時代
天文8年(1539年)に芋川正章の長男として誕生。芋川氏は信濃国飯綱の国人領主で、父の正章は武田信玄の信濃侵攻で降伏し武田家臣となっている。芋川氏の領する若宮城は武田氏と上杉氏の領土境界付近にある拠点であり、永禄12年(1569年)には信玄から親正に「雪が消えれば越後勢を攻めるのでそれまで境を守っていて欲しい」という内容の書状が来るなど対上杉の防衛線の拠点として機能していた事が伺える。
天正6年(1578年)に武田勝頼と上杉景勝との間で甲越同盟が結ばれた事でひとまず上杉の脅威は去っていたが、天正10年(1582年)2月に織田信長の嫡男織田信忠を総大将とする甲州征伐が敢行され、勝頼が自害に追い込まれると信忠配下の森長可に北信濃4郡が知行として割り振られ、芋川氏を取り巻く環境は急変した。
芋川一揆
天正10年(1582年)4月になると長可が海津城に入城。禁制の発布や降伏した北信濃国人の所領安堵の沙汰などを行うが親正は長可の元には参陣しなかった。そこで長可は上杉討伐の為に兵を出すよう要請する書状を親正に送り去就をはっきりするように仕向けた。ここに至って親正は長可に従わず上杉に与す事を決め、同年4月5日に領内の一向宗門徒、反織田を掲げる信濃国人を煽動して8000の兵を集め廃城となっていた大倉城の遺構に改修を加え蜂起。長沼城主島津忠直らと連携して長可に反抗した。まず一揆勢は直ちに守備の手薄な稲葉貞通の守る飯山城を包囲したが長可の対応は早く稲葉重通ら稲葉一門を派遣、さらには上野北部に布陣していた信忠にも連絡し、団忠正が送られ一揆勢は城の守備兵と増援の兵の挟撃を受けたためにひとまず大倉城に引き返すこととなった。
4月7日、一揆勢は防衛力の低い大倉城から長沼城を目指して移動を開始。しかしながら、援軍とは別動して動いていた長可によって既に長沼城は攻略さ れており、一揆勢は長沼口で長可軍3000の奇襲攻撃を受け1250人余りが打ち捨てられ、そのまま殺到する長可の兵に大倉城も責め立てられ陥落。女子供 も構わず切り、更に敗残兵を執拗に追撃した森軍のとった首は2450に及んだ[2]。一揆はこの1日で壊滅的打撃を受け瓦解し、親正も執拗な長可の一揆狩りの為にもはや信濃には居られず越後の上杉を頼って落ち延びる事となった。
上杉家臣に
上杉景勝を頼って落ち延びた親正は信濃との国境付近の守備隊に名を連ねるが、5月に始まった森長可の越後侵攻軍に上杉軍の備えは突破され春日山城にほど近い二本木まで侵攻を許す。しかしながら本能寺の変が起こると長可は陣を畳み越後から撤退を始める。ここで上杉軍は北信濃の国人を焚き付け一揆を起こさせて長可の撤退を妨害を試みるが、長可が人質を大量に取っていた為に攻勢に出られず長可の信濃からの撤退を許す。この時、人質は森軍によって皆殺しにされた。ただ、長可は取り逃がしたものの上杉軍は空白地帯となった北信濃に侵攻し勢力を回復。親正は牧之島城4486石を与えられ、領地から程近い徳川家康の臣下に下った小笠原貞慶の動きに備えた。天正12年(1584年)、上杉領に貞慶が攻め入り麻績城付近で戦闘になった時に奮戦し小笠原勢を撃破。島津義忠と共にその功を称された。
慶長3年(1598年)、上杉氏の会津移封に従って信濃を離れ、白河小峰城6000石の領主となるが、関ヶ原の戦いの直前に大森城主栗田国時が徳川方への内通で処刑されると大森城へと配置換えとなっている。
慶長13年(1608年)に死去。享年70。跡継ぎには養子の芋川元親(弟である芋川親守の子、甥にあたる)と、後から生まれた実子である芋川綱親とがいたがひとまずは親正の所領を元親が継ぎ、綱親は元親の旧領を継ぐという事に決まった。
また、武田旧臣で徳川家に仕えた小笠原正興(内蔵助)の養子小笠原正直(久左衛門、1582-1619)の実父は上杉弾正大弼家臣芋川越前某となっており、親正の実子か。(寛政譜第四巻義光流小笠原支流)
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