2014年12月20日土曜日


1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。
 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。
 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。
 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。
 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。
 佐原十郎左衛門尉義連は、会津の山岩尾邑にまず小田山城を築き住んでいた。その翌年には、子の猪苗代経連が猪苗代に亀カ城を築き、佐原太郎兵衛尉景連が蜷河荘を築き移り住んできた。
 しばらくして老いた佐原十郎左衛門尉義連は、小田山城を長男の盛連に譲り、幼孫三浦遠江守盛連の5男・加納五郎盛時の居城である加納庄三宮半在家に隠居していったのである。
 加納盛時は耶麻郡上三宮に青山城を築き住んでいたが、建久4年、佐原次郎広盛が河沼郡北田に塁を築いたことにより同属である盛時と広盛との間に溝ができはじめた。後に、これが発端として長い同属争いが始まるのである。
 この頃、佐原盛連は、父義連が築いた小田山城は山城であるため何かと不便なため、会津黒川(今の会津若松)の平地に城を普請することにした。それは湯川を外堀としたかなりの工事で長い歳月を費やすことになる。
 また信仰心厚い佐原氏一族は寺社の建立を同時に行い、構築中の会津黒川城の三の丸の西側に日汁上人を呼び如法寺ならびに薬師堂を創建し岩沢(喜多方)に熊野本宮の二王堂を建立することになる。
 これら神社仏閣の建立のおかげで以来会津は佐原氏に敵対するものが少なくなり平安な時が流れるようになり、信仰心に目覚めた会津の民は、慧日寺僧兵に焼討ちされた山上の恵隆寺の焼け残った本尊の千手観音菩薩を、山からおろし現在地(会津坂下)に移したのである。
 1212(建暦2年)芦名遠江守黒川城主の6男芦名六郎左衛門尉時連が新宮庄に城を築く新宮時連と名乗る。同年、新宮熊野神社長床が建てられる。新宮右兵衛尉助成の3男が小荒井に住み小荒井治郎兵衛広高を名乗る。
 佐原氏に随従して桓武平氏・千葉胤常の一族佐瀬氏の兄弟も、一族郎党を引連れ会津に移り住む事になった。兄は佐瀬河内守と名乗り、会津耶麻郡大寺(磐梯町)と小田付(喜多方)に館を築いた。弟は佐瀬大和守源兵衛(げんのひょうえ)と名乗り、会津面川(会津若松)に屋敷を構え一族を住まわせた。
 佐瀬源兵衛は武力にたけていたので、その後、芦名氏の侍大将となり芦名四天宿老になってゆくのであるが、芦名盛氏の時代には、会津黒川に広大な館を構え常に騎士200、歩卒1000余人を備え急事に備えとした。この地は、今でも会津若松に大和町という名で残されている。
 あるとき、佐瀬河内が黒川の南、天屋邑(会津若松大戸町雨屋)の薬師堂の前なる湯川の深淵で一日釣りをしていた。日暮れに及び急に悪寒がするので、ふと頭上を見ると、大蛇やがまさに河内を飲み込もうとしていた。
 河内守少しも騒がず長刀を閃かしこれに斬りつけたが大蛇は傷つき湯川の山中に逃げていってしまった。日を経てその付近から死鱗3枚がみつかり、さらにそれからも鱗や蛇骨が見つかったので、それらを朝廷や太守に奉じられた。
 この長刀は、それ以来「蛇切丸」と号し佐瀬家の家宝になった。天正17年(1589)の伊達正宗と芦名義広の磨上原の戦いで、佐瀬平八郎常雄(芦名四天宿老の富田氏からの養子)が合戦で使用し、三忠臣の一人となるほど戦った平八郎常雄が戦死後、菩提寺に納められた。
 その後、佐瀬一族の分流は、耶麻郡大寺(磐梯町)、耶麻郡小田付(喜多方)、会津郡面川(会津若松)、大沼郡西勝(会津高田)に舘を築き、芦名譜代の家臣となってゆくのである。
 1213(建保1年)和田義盛が敗死。北条時政が侍所別当を兼任することになったが2年後の1215(建保3年)北条時政が死去してしまう。建保4年(1216)になると奥州は幕府知行国となり、大江広元が陸奥守となり、建保6年には源実朝が内大臣、右大臣となる。 佐原盛連の子の3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、特に4男光盛は会津四郎左衛門尉・左京大夫と称していた。その後建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗るのことになる。
 1219(承久1年)佐原盛連が鎌倉に戻ったその年、公暁が源実朝を殺害、源氏の正統が断絶するが、すでに北條義時が執権になっていた。
 北條義時は、右大臣九条道家の子・九条頼経を鎌倉に迎え摂家将軍とし、北条政子が尼将軍として政所を開く事になった。この年に後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江、倉橋両荘の地頭罷免を要求したため朝幕関係が緊迫した。
 1221(承久3年)仲恭天皇が即位し、九条道家が摂政となるが、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下す。いわゆる「承久の乱」が発生した。北条軍は京に攻め上り討伐軍を打ち破り、以後六波羅に駐在し六波羅探題を設立する。会津からは、佐原義連の4男・佐原遠江守盛連と兄景連の子・景義を承久の乱に参加させるが、この年の4月佐原義連が没してしまう。  
 結局、仲恭天皇が退位し、後堀河天皇が即位。後高倉上皇が院政をしいて近衛実家を摂政とし、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に配流することによって承久の乱は終結した。
 1222(貞応1年)3月、会津小田山城主平四郎左衛門尉佐原(芦名)光盛は弟盛時と共に耶麻郡にある古刹慧日寺に花見にでかけた。
「兄上、慧日寺には昔、乗丹坊という千人力の僧兵頭が居たという話がありますが、本当でありましょうや」
「本当だそうだ。彼は越後の城氏に加担し会津4郡の兵を引連れ信州横田が原で木曾義仲と合戦したという。城氏が油断をしたため城軍が惨敗したが、乗丹坊の率いた会津の兵は勇敢に戦い、乗丹坊も討ち死にしたという。ほれ、そこに乗丹坊の墓がある。」
 二人は、乗丹坊の墓に額ずき合掌した。ふと後ろに気配を察したので太刀に手を添え振り返ると、そこに人品いやしからぬ人物が立っていた。
「これは、どちらの方か分かりませぬが、わが先祖の墓に焼香していただき誠にありがとう御座います。」丁寧に彼は頭を下げた。
「我らは、小田山城主芦名光盛と弟の盛時でござる。見知り置き願いたい」
「これはこれは、守護の芦名様でしたか、私は、慧日寺衆徒頭の富田漏祐(のりすけ)で御座います。どうぞよろしく願います」
「おお、衆徒頭の富田漏祐どのか、いつか会いたいと思っていた。」
 富田漏祐は、二人を宿坊に案内し、一献を差し上げた。芦名光盛は、しきりに自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子千松を出仕させることを約束した。
 千松は、5月5日に出仕し光盛の側小姓として仕えることになった。しばらくして千松は元服をすることなり平田益範を烏帽子親に戴き範の一字をもらい範祐(のりすけ)を名乗る。

[出典]
http://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/np5.htm

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