保科氏(ほしなし)は、信濃国高井郡保科に発祥した土豪。江戸時代には大名として存続した武家。
保科氏の出自と小領主時代
清和源氏井上氏の一族と伝えられるが、氏族名の由来ともなった保科の荘は古来からの荘園で、保科氏の祖は長田御厨の庄官を勤めたとされる。このことから古代氏族の他田部氏の系統とする説がある。また「信濃史源考」では他田氏と同祖とされる諏訪氏の庶流としている。若穂保科の広徳寺寺歴では平安時代に川田一帯を支配していた保科氏は一旦絶えて井上氏から分かれた井上忠長が保科氏を再興したとしている。長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を扶植した源頼信の二男頼季が信濃国高井郡井上に住し、井上氏が北信濃に勢力を拡大する過程でその家人となって武士団化したと思われる。
治承・寿永の乱では井上氏の総領井上光盛に従い源氏方として活躍、平家物語に光盛に率いられた「保科党三百余騎」として登場する(星名党とも記され初期の横田河原の戦いでは源氏方ではなく城軍の中に星名権八の名がある)。その後、井上光盛が源頼朝に誅殺された際に捕らわれた家人に「保科太郎」がいるが、のちに許されて御家人に取り立てられている。また承久の乱に「保科次郎」父子が出陣したことが知られる。
鎌倉時代から南北朝・室町時代における保科氏の動向は史料が少なく、確かなことは判明していない。唯一諏訪大社の記録である「御符礼之古書」などに保科姓が散見される程度である。
しかし建武2年(1335年)には中先代の乱において北条方残党を擁立する諏訪氏や滋野氏に同調した保科弥三郎が北条氏所領地に属していた四宮左衛門太郎(諏訪氏の庶流と伝えられる)らと共に室町幕府の守護所(千曲市小船山)を襲い青沼合戦を引き起こして敗走する。そして足利方の守護小笠原貞宗や市河氏らの追撃を受けて八幡河原、福井河原、四宮河原を転戦した。だが鎌倉において足利方が勢いを盛り返し保科氏らは清滝城に篭城して抵抗したが攻略された。守護方は反転してこの後牧城へ向けて攻撃を加えている。
武田家臣時代から近世大名化
戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則)の名が登場する。本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が南信濃に移った時期や理由などは村上氏との抗争に破れて村上氏従属派と高遠への逃亡派に分裂したと見る向きもあるが、今も不明である。またその繋がりも判明していない。ただ諏訪神党の一つに数えられていることから、諏訪氏と何らかの関係が築かれていたと考えられ、正則のあとを継いだ保科正俊は、(甲陽軍鑑では槍弾正として真田・高坂と並び「武田の三弾正」に名を連ねている)高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。天文21年(1552年)に高遠氏は武田氏の信濃侵攻により滅亡し、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となる。正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで軍功を挙げ、後を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。
正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解した後、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功する。そして後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。
正直の子正光は小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ大名に列した。関ヶ原の戦いの後には旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。更に大坂の陣での戦功により3万石に加増される。
正光の養嗣子として家督を相続した保科正之は二代将軍徳川秀忠の庶子で、寛永13年(1636年)に出羽20万石を与えられ、更に加増され会津へと移り、幕末まで続くことになる。ただ、保科姓を名乗ったのは正之と会津藩二代目の保科正経までで、その子孫は「徳川家御家門」として松平姓に改めている(正之本人は勧められても保科姓を守り通したとされる)。三代家光と四代家綱を補佐した正之は玉川上水を開削し江戸の水不足に取り組み、米の備蓄で天災に備える制度を創設するなど江戸太平の基礎を築いたとされる。また明暦の火災で焼け落ちた江戸城天守閣の復旧をせず民への救済米としたと伝えられる。
一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、後に幕臣に取り立てられたために別家を興し、上総国飯野藩主として保科氏の血統を残した。
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